東海林太郎胸像

東海林
太郎音楽館
生家の石灯籠
生家跡の記念碑
太郎少年が登った松

   東海林太郎音楽館
            

「秋田市・東海林太郎マップ」
    


















          
                                                 菩提寺 西船寺
                                                 (秋田市土崎港中央
                                                       三丁目7ー2)
                                                法名 聲楽院釋太朗大居士
                                               
展示品
  ◎東海林家生家玄関先 ◎満州に於ける産業組合(論文)◎ポスター8点
  ◎肖像画・120号 ◎直筆掛軸・ヒット曲歌詞 ◎直筆扇子・ヒット曲歌詞
  ◎胸像原型 ◎直筆色紙 ◎映像の世界(東海林太郎歌謡芸術保存会刊行)
  ◎歌のすべて(吹き込み歌謡全集)◎各種記念写真8点 ◎自画漫像写真1点
  ◎各社発売CDジャケット写真2点 ◎アルバム・レコード
  ◎不滅のアリア大全集 ◎勲章4点 ◎手形色紙



       玄関先(復元)      肖像画         論文「満洲に於ける産業組合」


                                     NPO法人 東海林太郎伝承会(秋元辰二理事長)
                                         秋田市大町2丁目1−11 
                                         TEL/FAX 018−823−5145
                                          E-mail taro@donpu.net



 

   

ええー、みな様。


昔、直立不動の国民的歌手といわれた東海林太郎でございます。
この度、私の郷里・秋田の方々が東海林太郎音楽館というものを創ってくださいました。
私もやっと故郷でよみがえった思いです。
嬉しいことに、私の音楽館の入口には次のような「誇り」と題するパネルが掲げられております。
  

           誇 り

 国民的歌手・東海林太郎は郷土の誇りです。
 東海林太郎は「歌手として、このわたしの立つ一尺四方は道場だ。
 この舞台はわたしの修養の場だ」と、あの直立不動の姿で歌い続
 けました。

 ふるさと秋田をこよなく愛した東海林太郎を秋田県民の誇りと
 し、「郷土に寄する言葉」を心に刻み、東海林太郎音楽館で
 「東海林太郎の人間性と音楽」を共に学んでほしいと思います。

                                   東海林太郎音楽館


           郷土に寄する言葉           
                     東海林
太郎

 私の故郷の家は、佐竹侯のお城跡の、山のすぐ下にありました。
 私は子供の時から、よく裏の山へ駆けのぼり高い松の木にのぼっては、脈々として続く奥羽山脈を仰いだり、遙かに男鹿半島を望み、はてしなくひろがる日本海を眺めながら、いつも、を限りに歌をうたったものでした。  かうして私は殆ど誰からも教わることなく、故郷の四季折々の姿を心に写しては、歌をうたってきました。この懐かしい故郷こそ、私の最初の、そして最大の音楽の先生であったと考えて居ります。
 先年、十幾年ぶりで郷土を訪問して演奏会を開いた時、私は真先にその山に駆けのぼりました。そして今もなほある、あの時の松の木に寄りかかった時、私は幾十年もの間、その松の木と一緒に、そこに立って居った様な氣が致しました。
故郷は一種のインスピレーションなり。琴線ひとたびに触るならば無限の妙音を発す」と語った詩人の感慨が、ひしひしと胸に迫ります。
 私の夢を、私の歌を、私のいのちを育んでくれた故郷

  おばこ唄ふて 寝かされた
  ふるさと恋し 母恋し
  雪の夜更の 子守唄
   おくになまりが なつかしや
  
  胸もさけよと 
かぎり  
  われは唄はん たからかに

  唄うことこそ わがつとめ
  わが望みなり わが命

              (昭和15年6月1日発行・東海林太郎後援会機関誌より)  


それでは、ふるさとをこよなく愛する私から東海林太郎音楽館をご案内申し上げます。

平成17年8月1日、竿燈の稽古のさんざめきが聞こえる頃。秋田市の真ん中、大町2丁目にある榮太楼菓子舗大町本店二階に開館されました。
窓の下は旭川の清い流れ。ウグイが泳いでいます。
 秋田の東海林太郎顕彰会の皆様や東京の東海林太郎歌謡芸術保存会(中村邦雄会長)や大阪の高瀬博さん、全国の多くの方々の善意を得てオープンすることができました。
 東京の古賀政男記念館や日立市の吉田正記念館、また、秋田県森吉町の浜辺の歌音楽館と比べたら、40坪足らずで、NPO法人東海林太郎伝承会設立の小さな記念館ですが、私としては郷里の皆さんが熱い想いで、市民の力で立ち上げてくれたこのことの方が嬉しいと思っております。
 ここは昔、榮太楼菓子店の喫茶店だった所で、すぐ前にニュータイガーというキャバレーがありました。
 私はそこのこけら落としに呼ばれ、歌ったことがあります。私は榮太楼の「さなずら」という山葡萄をゼリー状にした菓子が好きで、キャバレーの休憩の間、さなずらを食べながらここでよくお茶を飲んだものです。
 そうそう、小林旭君もここで一緒だったこともありましたね。彼はゴルフ場で失敗して、借金を返すために全国を回ってるとのことでした。でも彼、よく頑張りましたね。

  入口玄関 旭川側からみた音楽館

無駄口はやめて私の音楽館のことでした。
 東海林太郎音楽館のテーマは「伝えよう 東海林太郎の人と歌」―聴けます 見れます 学べますー
です。

 ここで、音楽館の中身を伝えたいと思います。らせん階段を上って最初に目にするのはガラス障子。これは東海林家生家の控えの間にあった障子です。

 等身大の写真     内部の場景   生家の玄関先 太郎ちゃ基金箱

ビックリされるかも知れませんが、私の等身大(1b68a)の写真が直立不動で出迎えます。
 その奥に見えるのが120号の肖像画。これは佐々木壮六画伯と作家の東海林良氏が秋田市に寄贈されたものをお借りしたものです。今まで秋田文化会館の2階ロビーの壁に掲げられていたのですが、ここに移されてホットしております。
 ガラス障子の陰に昔懐かしい蓄音機。レコードは「野崎小唄」がかかります。千秋公園前にある胸像の原型が飾られており、壁にある写真入りの年表にはその年に流行った歌、約二百もの曲名が書かれております。
 貴方様はどれだけの歌を歌えるでしょうか
 左側のガラスケースには直筆の扇子やレコード。そして正面のケースには私の可愛い孫・光樹が 開館前日の7月31日に持ってきてくれたもので、勲章四点と大きな印鑑。それから私が満鉄時代に馬賊と渡り合いな がら命懸けで書いた論文「満洲に於ける産業組合」が展示されております。これは国会図書館とここにしかない貴重なものではないでしょうか。

 私の直筆の色紙や掛け軸をご覧になって、ひときわ目立つのは私が上京する18歳まで過ごした生家の玄関先です。
 これは平成3年に生家が解体された折り、当時の東海林太郎顕彰会・柳沢格会長が親友の角繁社長渡邊繁雄氏に頼み、玄関先と控えの間を大事に保存されておりました。お二人とも故人となられましたが、これを小南工務店の小南昭二郎会長が見事に復元されたものです。ありがたいことです。
 玄関先の屋根の部分は江戸時代からの物で、文化財保護の役割を担ってもらっております。表札は私の直筆を彫られた白御影石。東海林家の菩提寺・西船寺にある私の直筆の東海林を写し取って男鹿の「かんぷう」の菅原広二さんが作ってくれたものです。
 この奥を東海林太郎の家ギャラリーとして貸し出ししております。
 恩師展や、絵画展、写真展、職人展等にご利用ねがいます。
 
 玄関下の雪印牛乳と書かれた黄色い牛乳箱。
 これは札幌の雪印乳業の資料館から提供されたものです。
 私の早稲田時代、同じ下宿に親友の瀬尾俊三がいました。
 最初の妻、庄司久子と結婚する時、彼女は何といっても大地主の親戚の娘で、両親も親戚も私のような学生の分際に猛反対。そこで瀬尾に相談したら、「お前は将来、大学教授になるんだといって久子さんの両親を説得したほうがいい」といわれ、そのとおりにしたら、ご両親も折れて彼女と結婚できた訳なんです。北海道出身の瀬尾は郷里に帰って雪印乳業に入り、雪印中興の祖をいわれましたね。
 その縁を知っている早稲田の商学部後輩が今回、雪印の東京本社の社長に手紙で牛乳箱をとお願いしたら札幌の資料館に保存されていたと送ってくれました。

 左の奥の方にはDVDコーナーがあります。これまでテレビ放映されたドラマや、東京12チャンネル・「歌の早慶戦」で、私が倒れる三日前に後輩のボニージャックスと早稲田の校歌「都の西北」を歌ったもので、最後の絶唱といわれるものです。どうぞ映像でご覧下さい。
 
最後の受け付けでは、私のグッツ、直筆の歌詞入りの湯飲み茶碗、手ぬぐい、シールが売られております。
 それから、募金箱。名前が太郎ちゃ基金箱。面白い名前をつけてくれたもんです。親友の斎藤憲三は学生時代、商学部の同期で、当時から親分肌でした 。同じ秋田出身で妙に気があって、私のことを太郎ちゃんでなく、秋田弁で「太郎ちゃ」と呼んでましたね。
 彼が東京の羽田に東京電気化学工業というオンボロの工場を作った時も訪ねていきました。
 国会議員に出るから応援に来いというんで選挙のたんびに演説会場で彼の前座で歌ったもんです。その後は色紙を何枚も書かせられましたわ。
 憲三が私に付けた太郎ちゃ、募金箱はそれから取ったんでしょう。
 何しろ、音楽館は貧乏なくせに、入館料を無料としたようで、私のグッツや募金箱の寄付金で運営しようとするんですから大変です。
 どうかよろしくご協力をお願い申し上げます


 私の満鉄の後輩で岐阜の馬場さんという方から、次のような手紙が音楽館に届いております。
 音楽館にお願いして馬場さんの了解を頂き掲載してもらいました。歌手冥利につきる文面であります。ご高覧願います。


 「国境の町」
 平成17年8月15日    馬場久孝(岐阜市長良仙田町)

 拝啓 酷暑の候、貴館には益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
 先日NHKテレビにて貴館が開館されましたことを知りまして誠に有り難く嬉しい次第でございました。
 曾ては偉大な功績を残した崇拝する東海林太郎さんも現在では殆ど語られる事がない現在、貴館が設立されました事は、小生にとっては誠にありがたく、かつうれしい次第でございます。
 かく申す私は東海林太郎さんのあの「国境の町」によって人生を生きて来られた者でございます。詳細は省略しますが、私は戦前に満鉄社員として、東満のソ連国境まで9キロの所の城下溝駅の運転室に勤務し、後にやはり国境まで5キロの老黒山列車区に転勤し、同じ国境に沿って走る興寧線の車掌として乗務しました。
 当時の対ソ関係から、国境地帯はビンビンに張り詰めた極めて緊張した状況下にあり、その中での勤務、乗務はお世辞にも楽しいものとは言えず極寒の中でも駅構内の巡視、いつソ連の襲撃にあるかも知れない中で列車最後部の車掌車に、たった一人での乗務などは、大げさに言えば正に命懸けの仕事でした。
 そんな中でフッと気が付いて空を見上げると、そこには満天の星があり、あの「国境の町」に歌われている
  ひとつ山越しゃ 他国の星が
         凍りつくよな国境
が今、この目の前に展開されているのだと実感と感激がありました。
 東海林太郎さんは私たち満鉄の先輩でこの歌は満鉄社員の為に歌われたとも言われていて、正に満洲そして、その国境を知る方が歌って始めて実感が出るものだと悟りました。
 この歌は私が旧制中学校(岐阜第二中学校)時代に覚えた曲で、満洲に渡る前から歌っていましたが、国境地帯で勤務して初めてこの歌の意味が判り、この歌は自分達のように国境に勤務する者への励ましの歌であると悟り、何時敵襲があるやも知れない状況に加え、冬は零下三〇度を越す極寒、更に虎を初めとする猛獣の生息地である、この山岳地帯の国境での勤務は決して楽なものではないが、この歌を歌って元気を付けろと言われているのだとさとり、以後事ある毎に歌って来ました。
 昭和19年暮れに、現役兵で関東軍に入隊し、国境守備隊での厳しい訓練と勤務にも耐えて来ました。

 帰国後は縁あって、当地岐阜に本店にある鰹\六銀行に職を得まして以後35年間、銀行員として生活して参りましたが、中途入行者には厳しい世界で様々な苦難に耐えながら勤めてきました。
そんな中でも、あの厳しい国境の中で「国境の町」を歌と共に苦難を耐え抜いて来た俺ではないか、こんな事で挫けてたまるかと、あの歌を歌い、自分を励まして参りました。
お陰様で何とか人生を落伍せず銀行を定年退職する時は検査役という立場までして頂けました。
現在は年金生活をしておりますが、厚生労働省の外郭団体である財団法人満鉄会の評議員をおおせ付かっている外、任意団体の東海満鉄会の副会長もおおせつかっていて、こうしたボランティアも致しております。
 こうした会の総会などで懇親会となりますと、必ず私に声がかかって「おーい待ってました。国境の町をやってくれ」とご指名がかかります。時々近くのカラオケハウスに行きますが、ここでも必ず最初と最後に「国境の町」を歌っております。
 東海林太郎さんから頂いた「国境の町」私の人生そのものです。最近は派手な身を包みゼスチャーたっぷりに歌う歌手が多くおりますが、先生は常に燕尾服の正装でしかも「一尺四方が私の戦場だ」とおっしゃって、直立不動の姿勢で歌われたあの姿はもうお目にかかれませんがあの姿、あの歌声はいつまでも脳裏に焼き付いております。        
 東海林太郎さんが終戦後間もない頃、岐阜県富田村(現富加町)の劇場へ公演に来られた事がありました。その時に私も聞きに参りまして、楽屋へお伺いして事がございました。
 その時に「国境の町」のことをお話ししましたら、「そうですか、私の歌がお役に立ってうれしい事です。混沌とした今の世の中ですが、どうか頑張って下さい」と励ましの言葉を頂き感激した事をはっきりと覚えております。
 また、昭和50年頃、キングレコードから発売された「ああ大満洲」と言うレコードの中に「国境の町」に限らず「赤城の子守唄」、「麦と兵隊」、「湖底の故郷」を初めとする先生のヒット曲はいずれもその歌の意味をよく理解されて歌っておられる事を痛切に感じます。

 貴館が開設されました事を知りまして、是非お伺いしたいと思いますが、何分にも遠く、80歳を過ぎた私にはいささか無理かと思います。
 御地秋田県には満鉄入社当時、一緒に幹部教育を受けた佐藤久君が由利郡象潟町におりますので彼にも伝えたいと思います。
 どうか東海林太郎さんの偉大なる功績を後々まで伝えて頂きますよう願っております。
 突然の書簡、誠に失礼いたしました。
 意のある所を察して頂ければ幸いでございます。
 ありがとうございました。
                               敬具


                 東海林太郎音楽館
                  〒010-0921 秋田市大町2ー1−11
                   電話・FAX 018−823−5145
                    E-mail taro@donpu.net