煙草のけむり

     

  

         ふるさと塾特別講演                       2003・3・28


★ 平成15年3月28日(金)
★ 彌高神社
★「泣き笑いの人生」    
   〜斎藤憲三・東海林太郎と私〜
★ 小林忠彦氏(小林工業会長)


 
 ただ今ご紹介頂きました小林でございました。最初から座らせてお話させてもらうのは、右足だけで歩いています。 
 この病気の話も後ほど話をさせてもらいますが、私は今、82歳です。逆にいえば28歳です。(笑い)
 28歳の話を聞いてください。
 私の主人は皆さんのお手元にある斎藤憲三という人が創業した東京の蒲田にあったTDK、東京電気化学工業に昭和12年に就職しました。一期生です。今生きているのは私だけです。ほとんど亡くなりました。
 斎藤憲三先生は最初に私が社会に出てふれあった人です。 そして山崎貞二という方は、斎藤先生のTDKはこの人がいなかったら今日のTDKがなかったというほどの方です。このお二人の指導の下で私の今日があります。
 私ははっきりいって高等2年で終わり、それから実業学校というか、本荘というところは商業都市なんですね。
 ですから、商業の店に見習いでやっていかなければならない環境でした。就職難の時代です。ですけれども運命でしょうか、私の父が卒業すると同時に就職する前年、昭和11年の5月に亡くなりました。

 今日のテーマであるます斎藤憲三と東海林太郎ですが、二人は親友だったんです。
 昭和12年に私達が16歳でTDKに入りましたら、工場に東海林太郎さんがくるんですね。もう仕事にならないんですよ。(笑い)もう夢中になって東海林太郎さんに心がいっちゃって。その頃はマイクがありません。ですから歌って欲しいとはいえませんでした。歌手になりたいと思っていて、憧れの東海林太郎さんから、声がつぶれるぐらい練習しなさいと言われたことがありました。近くの田んぼにいってよく歌ったものです。
 ただ、弟の次郎という人が経理課長でした。従兄弟の蛭田という人がきていました。
 そういう関係の方々がTDKに入社していました。東海林太郎さんよりも弟の次郎さんの方が歌がうまいんですよ。

 斎藤先生も偉い。あだ名をご存じですか。ホラ憲といって大きいことをいうもんですから、私達を受け入れた時、何も科学の科の字、機械の機の字も知らない私達に、粉を制するものは世界を制するといきなりいったんです。
 昭和12年頃というと、御祝儀は粉菓子で色を付けた鯛のようなものを想像するんですね。その粉が何で世界を制するんだなと思うんですね。(笑い)その後すぐに万年筆を出したんです。鉄の芯を出して、宇宙の電波はこれで吸収するという。ちんぷんかんぷんですよ。でも短いこの二つの言葉の中で、何か謎めいた言葉が私は忘れることはできません。
 私達、見習い工、第一期生は17、8、9歳の少年です。10名でした。今、TDKにものを話す場合、戦前、戦中、戦後の話を知っている人はほとんでおらなくなってしまいました。ですから今、TDKの話をする時は、私が引っ張られ出されて、話をするわけです。
 当時のTDKは考えられないほど、貧乏な会社でした。
 工場といっても、ここらへんで町工場といってもあまり立派なものではないですね。
 東京の工場は蒲田です。羽田の飛行場に近い所でした。
 そういう所にありましたから、飛行機はしょっちゅう見に行きました。
 蒲田の近くに多摩川があります。六郷の橋があって、私達が住んでいた所は羽田の中で、今は太子橋というのがありまして、私が戦争に行くときにとりかかっていました。
 昭和16年頃です。私の場合はTDKに12年に就職して、16年に兵役の義務があって、甲種合格ではなかったですが、大東亜戦争のまっただ中にありました。TDKに入ったのですが、当時は仕事らしい仕事がありませんでした。
 斎藤先生がいったフェライトとは、鉄の粉で、鉄を錆びらせて、科学的に赤い粉になります。これを焼きますと黒くなります。これが永久磁石となり、肩こりに効きます。
 
 私の人生は波瀾万丈といっていいかと思います。
 戦前は戦争のまっただ中。
兵隊でいうと16年兵です。以来、四年間満州におりました。私は航空隊です。飛行機の修理工場で、第八三四一部隊で軍属の方と一緒でした。今の黒竜江省のチチハルから、60キロぐらい離れたロシア国境に近い、満州里に近い所に部隊がありました。ソ連に近い最前線です。
 そういった地形のところに終戦まで4年間おりました。
 私は単なる兵隊でしたが、人に負けたくないという性格を持っているので、何でも出しゃばりで、分からないことでも何でも手をあげてやりました。演芸大会では張り切って歌いましたし、部隊長に気に入られたのか、室内に入る時は15度の敬礼でやりますね。 それが一番上手だと認められ、中隊を廻って歩きました。そのせいか、私は暗号兵に抜擢されました。
 部隊長付きだと下士官が暗号を解かなければいけなんですが、部隊長の親展の暗号を解く係りでした。
 そして終戦を迎えました。いきなりそこから弾薬庫に入れられ、ソ連に編入されて、本荘と秋田ぐらいの距離を行軍させられました。その間、将校の荷物を持って50キロも歩けるものではないですね。そこで、荷物をどんどん投げ出して歩きます。それを中国の人が拾いに来るんです。それを監視しているソ連兵がマンドリン銃といって、30aぐらいのケースに入った弾を腰につけてねらっては撃たないんですが、バラバラーとやるんですね。残酷でした。
 満州里から行軍してソ連に移送されて、シベリアに3年間いました。
 その前は、満州での第九航空野戦修理廠にいました。

 ちょっと読み上げてみます。これを書いたのは軍属の女の子です。この子が昭和20年の八月にハルピンから南へ男装して顔に墨を塗って汽車に乗って逃避行を書いたものです。
 「昭和20年八月九日、ソ連が同盟を破って攻めて来ました。飛行場は空襲され、地上軍もこうあんれいを越えて急進しているというころで、八三四一部隊の一部と家族が貨車にて八月12日頃、ハルピンに移動することになりました。
 普通ですと一日ぐらいの行程なのに、敗戦を察知した満鉄の現地職員のサボタージュで、何度も途中で停車し、やっとハルピン行きに着いたのは、8月15日でした。私はチョロチョロ水道の水を水筒に入れながら終戦の放送を聞きました。ハルピン行き構内からそのまま、約30キロ程の、あの生体実験で悪名高い石井部隊の家族が南下した後の空き官舎にひとまず落ち着くことになりました。
 真っ暗な夜、必死で家財を貨車に引き込み宿舎に運びました。それから4,5日立った頃、武装解除された軍人と55歳以下18歳以上の男子はポツダム宣言で先に帰国するからだと騙されて、シベリアに連行されました。
 残された女子供はどんなことなのか、決して終戦ではなく敗戦なのだ、負けたんだということがわかっていなかったように思います。ただ軍人達が、もしもの時には自決するようにと、手榴弾や毒物を渡し、女の人は髪を切って男装した方がよいと助言してくれました。それが決して杞憂ではないことはまもなく思い知らされました。連日、ソ連兵によって時計や万年筆の強奪、婦女暴行に戦々恐々として暮らしておりました。
 何人かの女性が服毒しましたが、みんなで看病して命を取り止めました。9月に入ると寒くなり、ジャガイモやトマトの葉が霜枯れて、北満の冬の厳しさが予感されます。
 9月中旬になって、銃声が頻繁に鳴って、不審な男達が伺うような不穏な空気に包まれ、皆、すぐ飛び立てるように服を着たまま貴重品や食料は枕元に夜警の人数も増やし、ふれが廻りました。払暁、銃声が激しくなり歓声も迫り、宿舎の廻りは満州人に取り囲まれました。その上、玄関をうち破ろうとする物音さえするので、夢中で外に逃げ出しました。家を飛び出した人達が家財が略奪されるのを呆然として見ていました。
 そのうち宿舎から取る物がなくなった人達がその矛先を私達にきました。誰もその矛先から逃れられません。ただ親、兄が取りかばいあったが、何時しか身につけた服をはがされ、靴をとられ、疲れ果て略奪の収穫に満足した人達が止めてくれるのを待ちました。昼頃になって止みました。踏み蹴散らされた襖、捲られた畳、衣食燃料もなく、あるものは梅干し、最小限の品物が残っていました。これから零下30度になる北満の冬を越せるはずもなく、日本人の大勢いるハルピンに行くことになりました。ぞろぞろと必死で歩きました。はぐれることは死を意味します。略奪に抵抗して殺されたり、道中はぐれて消息のわからない人もいる。
 その夜遅くハルピンの小学校の講堂に辿り着きました。ただ腰を下ろして、膝を抱き、空腹さえも感じないできました。焼き芋、おにぎり、饅頭も売りに来ましたがお金は一銭もなく買えません。その時ある方が苦しいときはお互いだからと弟達にお芋を分けてくれました。その嬉しさは決して忘れられません。後から後から奥地で暴動にあった人達が集まってきた。新公募にあった満蒙開拓青年義勇隊訓練所が難民収容所に移りました。略奪や銃声、強姦の恐怖はなくなりましたが、劣悪な食事で一日、コーラン少々とジャガイモ2個。栄養失調になり、住まいは六畳一間に13人ぐらいの人が目刺しのように並んで寝るだけ。
 風呂もなく着替えもないし、当然蚤シラミがわき、発信チフスでバタバタと倒れ、1ヶ月ぐらいで一間の人数が2、3人に減りました。亡くなられた人を毎日、荷車に乗せ、松花江の川岸に捨てたと聞きました。ここにいても死ぬしかないという状況に少しでも暖かい南に下がろうと三々五々、収容所を出ていきました。八三四一部隊の家族として、まとまって行動したのはその頃まででした。」
 というふうなことが本になっています。非売品です。

 私達はこういう経験者なんです。私がこの娘に会ってから、涙を流して「よく生きていてくれた」と感謝して、無事であることを聞いてきました。
 今でもこの娘と文通をしています。もう彼女は70歳を越えていますね。18歳の時に会って、それから五〇何年にもなります。それくらいの歳になっても、思い出は消えません。その時の苦しさ、そしてよく帰ってきたというその思い出で、2、3日前も又、会いましょうという話がありました。
 私もシベリアにおって、25歳で捕虜になって、三年間で兵隊がどうなったんだろうと思うくらい、本当に痩せていくんです。一年経ったらまるで人間が変わりました。痩せて骸骨そのものでした。
 何故なのか、今思ったらはっきり分かります。ロシアの食べ物というのは、日本人の口に合わないんです。ロシアパンというのはすっぱくて、日本でいうおかずはピックルというんですか、小さな瓶に入って、胡瓜のようなすっぱい日本の漬け物ですね。パンは日本だったら捨ててしまうような味なんです。日本では鮭を塩引きにして焼きますが、ロシアでは皮をはいで、生で食べるんです。
 そういう食べ方を強制させられたんですね。ですから食べれないんです。私は煙草も吸いませんし、パンは食べなければと食べておりました。 
 幸いに私は、TDKで4年間、技術を学んで、すべての機械を使えましたから、ソ連に行っても鉄道建設において、いきなり機械を使わせられました。機械はこっちの得意とするところです。
 ノルマがあって、一日、何本作れば赤旗をもらえます。私は何時も赤旗をもらって合格でした。たまたま食べれないし、食べるものがないと、自分の技術でもって真ちゅうで親指に合う指輪を作ってやって、パン粉と交換してきました。次の日になるとロシアの女の人が、ヤポンスキー、ハラショーといってダメだと、洗濯したら色が変わったという。(笑い) 
 それは当たり前なんですがね。そんな思い出もありました。
 そんな中で私は針も作りました。いろんな物を作ってやると、3キロのパンをもらいましたね。
 一日一食、手を握ってもう一つかぶせたでぐらいのパン。それが精一杯の私達の求める食事でした。 こういう食事で3年間過ごしました。ですから本当に腹は減るし、着る物はボロボロになります。

 私の泣き笑いの人生の話をさせてもらいます。
 人はふれあいの中で人生が変わると思います。
 私は斎藤憲三先生、山崎貞一先生とふれあって私の人生は変わりました。お二人とのふれあいがなかったら今の私なんかないんじゃないかと思っています。
 人のふれあいの大事さ、教育の力、人生とは出会い、巡り会いで運命が変わります。
 私の人生は戦前、戦中、戦後にわけていいますと、戦後、シベリアから日本に帰ってきたのが昭和23年です。まだ若い28歳でした。 よおしっという意気込みで帰ってきたんです。本荘駅に帰ってきたが、母親の姿を目で探しましたが見あたりませんでした。母親は、全然歩けないで家にいました。それでもよく生きていてくれたなと何もいうことはなかったです。
 私の妹は11歳違います。まだ学校でした。私は次の日から働かなければいけないというくらい、私の家はひっ迫した状況でした。 奥の部屋で母親は、目でご苦労さん、よく帰ってきてくれたといい、私は泣きながら母を見つめていました。
 ただ、元の職場では私を受け入れてくれませんでした。
 それは社会主義という国に3年もいたのでそれは、当然だと思います。そういったことがありまして、四年間ブランクがありました。 昭和27年に、どうしても私の技術を必要とするということで小松正一という石沢出身の無二の親友を手伝うことにしました。
 でも4年間で様々な人とふれあいました。職業に卑賎はないといいますが、まず、昭和石油のピッチというか、誰もやりたくない仕事に積極的にやるようにしました。 農機具の修理もやりました。一年ごとに四回、職場が変わりました。そんな中で人の気持ちの厳しさもありましたが、心の中で、負けてはならない、こんなものにと思いながら、厳しい人生のなか口ずさんだ、今の私があるのは、やはり歌ではなかっただろうかと思います。
 その歌も、又、ソ連の話になりますが、シベリア抑留時代、みんなを慰めようとして作った歌が、「煙草のけむり」、ほんとは「マホルカのけむり」なんです。

 さわやかなのは 春の空
 朗らかなのは 僕の心
 広々と曇りなく 青空に
 パッと吹いたよ マホルカの煙 りだんよ

 この詞を歌手の伊藤要さんに四番まで作詞して頂いて、去年の九月にCDにしましたが、その際、
「八十過ぎ何故CD製作″歌手゛デビューなのか」と題して、私はつぎのとおりに書いています。

 この度の自主制作CD「煙草のけむり」が意外な方向へ展開し反響を呼んでいることに戸惑いとともにことさら驚いている次第である。このCDは新聞紙上において紹介されている如く、秋田市在住の地域おこしに取り組まれている佐々木三知夫氏との出会いがきっかけであり、突如とも言うべき出来事なのである。
 何も歌手気取りで製作したものでもなく、極めて純真な気持ちで製作したものである。
 すでに紹介されておるように、私は終戦後、シベリアでの抑留生活三年を経て、無事帰還した仲間の一人である。氷点下40度という厳寒での3年の抑留生活はまるで地獄絵図を見るような言葉にならない悲惨且つまた無惨な生活であり、帰ってこれたのが奇跡というか、不思議なほどに思っているのである。
 抑留生活での労働は鉄道施設作業であり、体力の限界を超越する重労働この上ないものであった。仲間の多くはこうした重労働と栄養失調などにより、その過酷さに耐えきれず次から次へと倒れ、死んでいったのである。
 そうした状況の中にあっても、自分は必ずや日本に還ることを、いや還れることを信じ気力によって堪え忍んできたのである。
 私はもともと歌好きであり、兵隊前には歌手を志したほどであった。そんなことから、自分をも含め疲労困ぱいの仲間達を少しでも癒したいが為に明るく元気をふるまうようピエロまがいの格好で踊りながら歌ったのが自作の「煙草のけむり」でだったのである。
 仲間達に大いに喜んでもらった当時のことは、今でも夢を見る如く片時も忘れることはない。
 私は昭和23年に帰国し、転々流浪の果て、昭和27年に小林工業を創立し、現在に至っているのであるが、数限りない危機に遭遇する度ごとに「煙草のけむり」や「泣き笑い人生」「人生航海」などを口ずさみ荒んだ心に元気を与えつつ、今日まで生きてきたのである。
 不況に苦しみ疲労困ぱいする今日とシベリアでの苦しみは天地の差とも言うべきものであり、比較になるものではないが、しかし、私のCDが不況に苦しむ今日の世相において、少しでも明るい話題として活力の一助になるのであるが、望外の幸せに思う次第であるし、人生の最大のよろこびとするところである。
 先に述べた通り、この度のCDは決して歌手きどりで製作したものではないことを固くお断りしておきたいと同時に、皆様にはご理解いただきたいと思う。
 八十一歳のご老体が今なお元気でいられるのは、好きな歌を唄いつづけているからにほかならないと、自分に言い聞かせている今日である。
  
 マホルカというのはソ連の煙草の名前なんです。私は煙草は吸いません。パンとマホルカを揃えて、どっちかを取れというと、兵隊はほとんど煙草に手を出すんです。 私はそれを不思議に思いましたけれども、今考えてみると、やむを得ないなと思います。
 パンは日本人の食事に合わないし、煙草は何よりも欲しかったのだと思います。でも、そういう人達はどんどん痩せていきました。一年間で、驚くほど痩せて、皆、重労働に耐えられない姿でありました。
 そういう中で、私は技術を見につけていましたから、恵まれていました。ほんとに運が良かったと思います。
 ところで日本に還ってから、今いったように昭和27年に独立することになりました。
 皆さんの家庭にある、私のやった仕事の中に、TDKの名前ではあるけれども、自動車にはラジオが必ず付いていますね。これはトヨタと松下電器と契約しています。 それは全部付けるから、これこれにしなさいという話から始まっています。ですからそういうものの中に、フェライトという日本人が発明したものが扱われています。加藤与五郎先生と武井武という先生が発明したんですね。このフェライトがなければ無線技術が今日まで発展しなかったのではないでしょうか。
 このものにはまだ未知の世界があるんです。
 電波というもは目に見えますか。計器がないと見れません。強弱もわからないですね。
 皆さんが携帯電話を持っています。昔は電話ボックスで電話をかけると有線なんです。今は、皆さんが歩きながら話をする。こういう時代になってきました。
 私が関係したのは今いった、自動車にラジオをつくることで、とにかく作りきれないほど忙しかったですね。
 それが昭和27年に始まって、まもなく日本の状態が良くなって、電化製品の時代となって、新幹線ができて、オリンピックが目の前にありました。
 そんな時代に昭和27年から5年間は着の身着のままの姿でやりました。苦しいというよりも、新たな仕事に眠れない毎日でした。
 粉を加工する。これは世界でも初めての技術です。鉄を削るにはバイトというものがあって、粉を削るにはどうしたらいいかという課題がありました。

 私はこの粉を削るにはどうしたらいいかと道具を考えました。
 ガラスを割ってみたり、鋸を自分でやってみたりしました。
 山崎さんから、「君、真ん中の心棒を削るのに、3ミリまで削る方法を考えろ」といわれました。
 とてもではないが、5ミリまでは削れるんですが、削るといっても粉をキャッチングするのにボロボロしてとても削れないんです。
 バイトというものでやるとポンポーンと折れてしまうんです。ですからどういう刃物がいいのか、探しました。目に見えない技術がどっかで何かがあるはずだと毎日、工場を廻って歩いたんです。
 偶然にも、その目に見たものが一カ所に固まっていた。何だといったらツールポストグラインダーという刃物用グラインダーというのがあって、それにぶつかりました。私はこれでやったら3ミリどころが1ミリぐらいまで削れることができました。
 削る刃物が発見されて、今はそのことがTDKで、世界でもやってない、粉でネジを切るんですね。仁賀保工場でしか、ネジを切ってないんです。JIS規格に合致するネジが切れるんです。
 ほんとにフェライトがネジを切っていますが、最初は私がやっていました。
 それからもう一つ、金型というもので、秋田県文化功労賞を受章したのは金型産業を振興ということだったんですが、秋田県では5社しかやってなかったんです。
 本荘では特殊な金型をやっているんです。金型には9種類あるんです。普通、自動車はプレス型といって、金属を抜いたり絞ったりしてできる訳です。
 後はプラスチック、それからCDも金型できまるんです。
 ものすごく厳しい金型でないとできません。うちでもCDの金型もやります。
 そして、そういうものが昔はギャップ、いわゆる粉を上下するのは粉を入れるだけの寸胴型といって十五aぐらいの長い胴に粉を入れて、そして固めてなる訳です。
 これを焼結しますと真っ黒になるんです。酸化鉄ですから、最初は赤くなって、錆びたものですがこれを固めて、焼いて磁気というものになります。
 皆さんご存じでしょうが、金型にも静電気が起きるんです。これが起きると粉が入っていかないんです。まるで毛が生えたようになって粉が入っていけない。
 そこで逆に静電気が起こらないようなものを作らなければいけません。そして又、金型は減るんですよ。ともかく摩耗が激しい。
一日に一個ずつ金型を使うくらい摩耗が激しいんです。一日一万個をノルマにしても、できないほど減るんです。
 ちょうどテカテカテカと光って減りすぎて、ギャップというか、隙間が空きすぎて専門用語でいえば、バリがでるんです。
 ギャップがでると品物になりません。大量生産に向くには絶対に条件があるんです。寸法がきちっと出ないとダメなんです。
 そこで一番肝心なのは、金型をどうせめるかが、問題でした。
ともかく寸法をきちっとやる。素人は、はめれません。それだけ厳しい寸法が必要なんです。

 ところで私は昭和39年にアメリカに行って来ました。アメリカで行ったら、日本にない金属で金型をやっていました。それが超硬といって、ものすごい金属でガラスも切れるんです。それだけ固い金属なんです。
 今、私の会社では粉から作ってそして、金型を作っています。
ですから、よそで2ヶ月、あるいは3ヶ月ぐらいかかる仕事が一週間で出来ます。それが今の私の会社です。「超硬素材」まで自社でやっているというのは、金型の会社では、日本ではただ一つだと思っております。
 皆さん、何時か是非、うちの会社に来てみてください。
 金型を私が攻めた。寸法がもの凄い。超硬を使うと壊れるまでは何十万個でもできます。
 減らない、固い。そういう金属なんです。これが昭和39年にアメリカに行って、これだと思って取り上げてやることになりました。
 ですが、削ると摩擦で静電気が生じて、それを抜かなければいけません。そういったものも作っています。また逆に磁気をいれる必要もあるんですね。
 それからだんだん世の中に電気製品が普及してきまして、そんな時期に日本の産業の中に、金型に中に、寸胴型というのは1%も満たない需要なんです。特に秋田の場合は、中央に皆、お願いしているんです。でも私は、その時に小畑知事にもいいました。私はオープン型ですから、私の会社に来て、見ていって真似してもいいと。
 そしたら、いっきに30社以上も来て、能代とか大館に、金型の会社ができました。今でもその傾向があって、秋田県で、自社で金型をやっている企業が多いのではないでしょうか。
 でもまだまだ金型には未知の部分があります。

 昭和27年に起業して、十年目にして、この病気になりました。目に見えない神様がいたんでしょうか。十年間は健康で、何事も負けたことがないくらい張り切っていました。
 斎藤憲三先生の友達で、東海林太郎さんの弟子になりたいという希望を持っていました。
 当時はマイクがなく、東海林太郎さんから、声を出すんだったら血が出るほど、自分の声を枯らせといわれていました。一時は何とか弟子になりたいと夢中になって歌の練習をしたこともありました。
 今から65年前になりますが、機械のことを何も知らない、斎藤憲三先生。ホラ憲といわれた先生ですが、今でも斎藤先生が話されたことが続いているんですね。
 私は東海林太郎さんの弟子になりたくていろんな事をやってきましたが、大きなことを想像して、ホラを吹きますが、嘘はいいませんよ。

 ホラも吹きますがハーモニカも吹きます。(笑い)
 ちょっと吹いてみます。
 「ドレミファソラシド」
 この小さいハーモニカで唱歌も民謡もやります。

 大きな病気になって悲しくなって、人前で泣くわけにいきません。海に向かってバカヤローと叫んだこともあります。そんな時に、悲しい歌、喜びの歌を歌って乗り越えてきました。
 十年目に大腸ガンになって、私は人工肛門なんです。私が病気になった時はまだ、医療器具のビニールの袋はありませんでした。そういう時代に東京の慈恵医大に入院していました。
 あの近くには東京タワーがあります。東京タワーはうるさいんですね。寝ていると、風が吹いて東京タワーはブウーッと唸るような音を出すんですね。皆さん、一度慈恵医大に入院してみてください。(笑い)うるさくて眠られないんです。そんな時でも、痛い痛いといった歌も作りましたよ。
 「持ってこい、持ってこい、注射器を」といった歌を作ったりして、看護婦さんから、変わった歌だなといわれましたね。毎日、コップ一杯ぐらいの薬を痛み止めで飲んでいましたね。そんな思い出がありました。

 そして、小林工業は独立して今年で51年になります。そしてこの病気と戦って41年。
 その間に、どのくらい泣いて、笑って自分の人生を歌で支えてきました。 
 東海林太郎と秋田県人の上原敏の二人で歌った「泣き笑い人生」を我が社の社歌にしたんです。
 これは今でも四番まで暗記しています。それからもう一つ、「人生航海」の二つと「湖底のふる里」はこれは、戦前は歌ってはいけないと禁止された歌です。
 今は自由に歌えて、この1月に本荘市で歌いました。
 ほんとに歌に支えられてきました。私が歌えるのは300くらいあるんじゃないでしょうか。もっとあるかも知れません。
 渡部はま子の中国の歌も口ずさんでいます。
 涙を流すよりも歌をながすことでやってきました。人が困った困ったという時は、困った節でやろうと。困った時の話を聞いて、そのとうりのことを歌に表す訳です。
 そうすると、困ったという人は喜んで、もう1回歌ってくれといいますが、2回は歌えないんですよ。(笑い)
 そんな訳で東海林太郎、上原敏の「泣き笑い人生」は真剣勝負で歌ってきました。

 七つ転んで八つで起きて
 花を咲かせる身じゃないか
 何で好んでこの世をすねて
 広い世間を狭くする

 人生航海は
 夢がなければ生きらりょか で始まるんです。
 湖底のふる里が戦前、何故、禁止されたかというと、この歌はふるさとがダムに沈んでしまったという歌なんです。
 当時はカフェというものがあって、客の男がこの歌を唄うとタダで飲ませるもんだから、そういう輩が多くて、それで禁止されたという話です。ほんとかどうかはわかりません。(笑い)

 とにかく戦時中の話ですから、歌ってはいけない歌はいっぱいありました。厳しい時代でした。
 そういう思い出の中で、いってみれば歌がなければ、この病気も、私の会社も今日なかった。
 ましてや、斎藤憲三先生と山崎貞一先生に巡り会わなかったら、今日の私はいないんです。
 先ほどいいましたが、小林工業が五十一年のその間に従業員は二千人です。家族をいれて六千人になります。TDKの従業員は秋田県の中に、一万五千人でした。家族をいれると四万五千人ですよ。
 本荘市の人口が四万五千人。経済性をいうならば、四万五千人の経済をTDKが持っているといっても過言でありません。

 今は外国に企業をおこしておりますから、もっと大きいです。世界各地、ドイツや中国にもあります。この間、私は中国に行って来ました。
 台湾の真ん前にある中国のTDK工場に行ってきました。2日ばかり。一番面倒なのは何だと聞きましたら、躾だといいました。
 会社はどうしてもそういう躾が厳しくないとなじめないんです。 日本の企業は従業員の使用期間が二ヶ月なんです。中国では4日なんです。使用期間が。あるいは3日、あるいは見た瞬間にダメだといいます。厳しいんですね。4日で決まるんです。中国のTDKの従業員は4千人なんです。全員が寮。男も女も寮です。
 その躾の第一番目は何だと聞いたら、水洗便所の使い方だと、それを教えなければいけないといいます。
 それから食事。握り拳ぐらいの残飯があると罰金なんです。給料はなんぼだと聞くと、3千円。日本人1人雇うのに30人も使えます。ですから非常に厳しいです。従業員は山奥から来るでしょう。工場なんか働いたことのない人達です。
 そういう人達がいきなり作業服を着せられて、食事だの色んな初めてのことに直面しているんですね。
 4千人をどうやってご飯を食べさせるんだと聞くと、千人づつ、ですから朝の10時から1時頃まで
かかるんです。ですから残飯が握り拳分も残されたら、4千人ですから大変なんです。
 ところが今、彼女達は残すと罰金をとられて給料がパーになりますから、残す人はいなんだそうです。
 そして、3日か4日で首を切られるんですから真剣なんです。でも、出来た製品を見るとまだ、ダメだなあと思いますよ。ただ、形だけは何とか合格かなと思いました。
 行程というか4つに分けています。4千人いるんですからすごい人数です。工場では向こう先が見えないくらいですから。振り向かないんです、自分の手元だけを見ていますから。
 指導者が女性で、4つのグループに区分されて、4列になっていました。ほんとに真剣勝負でした。 あれでは、日本は負けるなと感じて帰ってきました。私はたった2日しかその会社に行ってませんが、これから
21世紀の時代に、賃金だけの話になるとちょっと難しいですね。

 ただ、中国でもできないような仕事は何なのか、これからの21世紀はどんなものに持っていくか。中国ではやれない仕事、厳しい仕事が必要なんではないかと思います。
 それには、皆さんが会社にきて、こういうことができないかといって、出してもらったらいいんです。かえって素人のほうが何も考えないで、出して貰ったほうがいいんです。
 私の会社は、1回使った物を捨てないで生かすといったのが私達の仕事なんです。この技術が難しければ難しいほど、その技術が正しく綺麗なんです。
 どういう技術が必要かといいますと、任せられて、ただ一つの機械しか使えないんではダメなんです。もし金型というのを、ほんとに専門にやりたければ、正五角形の金型をやる。この五角形が試験なんです。私らの業界は。

 この試験の名前はすっぽんといいます。すっぽん技術。五角形を正確に五角形にして、どこでも回してすっと入った時、すぽーんと抜けるからすっぽん技術といいます。(笑い)
 これは金型の職人が必ずやらされる技術なんです。これがやれないと金型屋とはいえません。ですから厳しいですよ、金型屋は。
 まだまだもっと厳しい姿勢で物事を見ていかなければいけません。 寸胴型はちょっとでも平行にならなければいけません。粉が詰まって抜けないんです。
 それを私の会社は、十五aの胴長を完全にしてやっています。これが小林工業です。これを外国、中国にやっても形だけは金型といってやっています。
 でも使ってみたら1回で抜けなくなる。それは平行でないからです。水平でないから。磨きが悪いから。ともかく凸凹だから。これだけの技術の差があって使えないんです。役にたたないんです。とくに粉末せいけいというのは、粉が小さな隙間に入って、動かなくなる。そういうようなことで、技術の差は相当あります。
 皆さんがそんな現実にあって、その為にはチャレンジ。挑戦する。そして、熱意、創意というものが私が指導している技術の根本なんです。私は話は下手ですが、仕事に対しては厳しい。

 私は八十二歳になっても現役ですから、逆にいって二十八歳です。この間まで十八歳です。(笑い)
二十八歳になりました。その健康のバロメーターは声、歌です。
 三橋美智也、今は里見浩太郎の歌を覚えていますが、今でも「泣き笑い人生」と「人生航海」は全部、歌えます。
 皆さん、是非、百聞は一見に如かずといいます。小林工業って何なんだ、こんな学力のない男になんで二千人も使われて50年もなっているんだ。
 今、小林工業の50数年の記録をもっか制作中です。もし必要であれば佐々木さんをとおして、その内容を見てください。
 皆さんに支えられてここまで、来ました。巡り会いです。
 指導者は学歴ではないんですね。当時の教育長の斉藤長(たける)さんにいわれて、校長先生の前で講演をしてくれと頼まれたこともありました。何で私がと思いました。皆さんにあげます、この煙草のけむりのCD。
 私は歌手ではないですよ、ほんとに。これは26歳の時に、シベリアで
 ♪爽やかなのは春の空
  朗らかな僕の心 と歌って踊ってやったところの曲が、伊藤要さんから二番、三番、四番を作ってもらったものです。ほんとによくできています。
 私は毎日、夕方五時半に、千という所にいって歌って、私は、健康のバロメーターを声で計っています。
 こんな話をしながらも、私の耳の片方は全然、聞こえないんです。それでも皆さんの話かけは必ず聞いています。

 私の話はやぶれかぶれのようになっちゃったんですが、縁があったら私の会社に見てきてください。 十何カ所あります。岩手県にもあります。毎月一カ所づつ廻って歩いても1年3ヶ月もかかります。
 私の泣き笑いの人生は、ほんとに皆さんに支えられてここまで、来ました。それは巡り会いだと思っております。ほんとうにありがとうございました。
  ※小林忠彦会長は平成15年11月2日 永眠されました。ご講演の テープおこしは涙ながらでした。
   まさに会長の「泣き笑い人生」には多くを学びました。
   12月7日に 秋田県民会館で「新雪」を歌われる予定でしたが無念。
   ご厚誼、誠に有り難うございました(合掌)
  
 
  

  










 
煙草のけむり発表会の後
 平成15年1月18日 本荘ホテルアイリス
 編曲の佐々木久美子さん達と


   ふるさと呑風便  2003・1・20  NO.165

    夢
 
 去年の暮れ。自宅で年賀状に添え書きをせっせとを書く。 
 年賀状が元旦に着くのに、秋田市内だったら大晦日の午前中に中央郵便局に持っていったら間に合いますよと、ある郵便局長さんから秘密裏に教えてもらった。秋田市内だけでも千二百枚を超える。
 一人づづに添え書きを書きたいところだが、緑の色鉛筆で笑と書く。これだけでは物足りない、創と、美と夢を加えて笑夢美創とも書きつづける。何とか30日の午前中までに書き上げて中央郵便局に持っていった。
 大晦日は、娘・江津子はロンドンに遊びにいったが、息子の洋平が帰ってきた。女房も九州の実家に帰らず、私も実家の大内町に行かないで秋田市で始めて新年を迎えた。
 初夢。何を見たか記憶にない。年賀状に書いた笑夢美創。とりたてて意味はない。自分の好きな字を並べただけです。
 今年の夢というか、目標のひとつに秋田市出身の国民的歌手・東海林太郎の記念室開設の運動を考えている。

 昭和61年1月4日付け秋田魁新報の声の欄に掲載されたことがある。
ー憲三・太郎の友情の碑をー
 TDK創設者斎藤憲三と東海林太郎は親友であった。日本の科学技術の発展に貢献された斎藤憲三は、秋田県人に乏しい進取の精神の持ち主であった。一方の東海林太郎は秋田県人の代表的な特性の、情が深く真摯な人柄であり、あの直立不動の不滅の大歌手として、日本人の心の中に残っている。TDK創設時、東海林太郎は何回か工場を訪ね、少年工へ歌を披露していったと聞く。当時の少年工で現在はTDK関連会社のある社長は、創立当時の苦労をしのび、若い頃工場で聞いた東海林太郎の歌を今でも愛唱しているという。(中略)
 現代秋田の生んだ二人の大人物が並んだ銅像を、秋田駅前に建立を提案したい。友情・友愛の尊さを青少年に教え、友情無限の精神を後世に伝えるため、斎藤憲三と東海林太郎の銅像を建て、秋田県の代表的人物を顕彰したいと思うがいかかであろうか。

 一七年前に考えたこの夢にはほとんど反響がなかった。
 ただ、この声の欄の、ある社長とは現在、本荘市に住む小林工業会長の小林忠彦氏のこと。小林会長はこの新春に夢の実現を果たされた。
 東海林太郎が愛した言葉。
「人生に夢があるのではない。夢が人生をつくるのだ」をまさに体現されたのである。

 一月18日。本荘市のホテルアイリス。小林忠彦作詞・作曲「煙草のけむり」発表会が開催された。
 小林会長は艱難辛苦のシベリア抑留時代に作った「煙草のけむり」を昨秋、CD化し、81歳で「歌手」の仲間入りをされた。
 その「煙草のけむりの」発表会は、この不況下にあっても明るさ、朗らかさを忘れないように、日本を元気にしようとの趣旨で開催されたのである。小林会長は生バンドをバックに最初、東海林太郎の「人生航海」を、朗らかに力強く、歌われた。
 ♪
夢が無ければ 生きらりょか辛い浮世の いばら道
明日の為なら 泣きもしようやがて笑顔で 仰ぐ空

「人生に夢があるのではない。夢が人生をつくるのだ」
    ふるさと呑風便   2002年9月  NO 161

  煙草のけむり

「そうそう、このパットというのと、だんよを覚えている」
 秋田市八田の「山の五代」という御食事処。そこには尺八や三味線も置かれている。
 平成14年9月15日の晴れた午後。
 ご主人の佐藤岩夫(54)さんがCDを聞きながら、語ってくれた。

 煙草のけむり
      小林忠彦 作詞作曲
 ♪爽やかなのは 春の空
   朗らかなのは 僕の心
   広々と曇りなく 青空に
   パット吹いたよ マホルカの煙だんよ

 この歌は、小林工業会長の小林忠彦さんがシベリア抑留時代に作った歌である。この歌を編曲された佐々木久美子さんは偶然、山の五代の佐藤さんに小林会長のCDを聞いて貰った。そしたら何と、この歌を親父がよく飲んで歌っていたと聞いた。
 これは興味深いと、山の五代を訪ねて、話を聞きに来たわけである。一緒に「煙草のけむり」を聞いた。明るく爽やかで、朗らかな心がこちらにも伝わってくる。
「親父はシベリアではなくて、南方から帰ってきたんです。だから、誰かシベリアで覚えた人から聞いて歌ったんだと思います」
 食堂には岩夫さんのおふくろさんもおられた。CDジャケットの写真を見ながらいわれる。
「亡くなった父さん、従兄弟で阿部新五郎さんとよく飲んでいて歌ってだ。新五郎さんも亡くなったども、シベリアさいってたかも。それにしても、81歳で若い声してるなぁ。顔もええな、若い頃はいい男だったべなあ」 

 煙草のけむりのCDに「そして歌がうまれた」と題する解説文を書いた。  
 半世紀以上もの昔、昭和12年の東京・蒲田。小林さんは、斎藤憲三が創設した東京電気化学工業(TDK)蒲田工場の一期生だった。そこへ、斎藤憲三の親友でもあった東海林太郎がきた。歌と出会った。小林少年は歌手の道を目指した。しかし、戦争がその夢を砕く。初年兵として北満の国境地帯にあるチチハルへ。終戦となってシベリアに抑留される。悪夢の3年間だった。
 小林青年はふるさとに帰りたい一心の抑留者を慰めたいと思った。収容所の演芸会で、絣の着物を着て自作の「タバコの歌」を歌った。自作自演で明るくほがらかに歌った。
(中略)
 故佐藤憲一本荘市長の葬儀の後のこと。小林会長は私に「煙草の歌」を聞かせてくれた。明るく爽やかな歌である。
 私は思わずいってしまった。
「会長、往年の歌手への夢をかなえませんか。不景気な今の日本を元気づけるためにも、『タバコの歌』をレコードにしませんか」
 快い責務となる。音楽プロデューサーの川又淳氏にCD化を依頼し、一番だけの歌詞を、名歌手の伊藤要さんには二番目から詩を作ってくれた。 春から夏へ、秋、冬の「煙草のけむり」という歌が生まれた。
 
 この歌は新聞、テレビで大きく取り上げられ、注目を浴びた。あまりの反響の大きさに、小林会長が私に、「八〇を過ぎ何故CD製作なのか」と題して、コメントを寄せられた。
 「このCDは、何も歌手気取りで製作しのものでない。
 氷点下四〇度という厳寒での3年の抑留生活はまるで地獄絵図を見るような悲惨、無惨な生活の中で、疲労困憊の仲間達を少しでも癒したいが為に、明るく元気に振る舞うようピエロまがいの格好で踊りながら歌ったのが自作の「煙草のけむり」だったのである。
 仲間達に大いに喜んでもらった当時のことは、今でも夢を見る如く、片時も忘れることはない。(中略)
 不況に苦しみ疲労困憊する今日とシベリアでの苦しみは天地の差ともいうべきものであり、比較になるものではない。しかし、私のCDが不況に苦しむ今日の世相において、少しでも明るい話題として活力の一助になるのであれば望外の喜びに思う次第であるし、人生の最大の喜びとするところである」

 八月末に製作された千枚のCDは不足してしまい、近く、三千枚が追加され、全国ネットに乗せられる。10月27日(日)には本荘市で発表会が開かれる。
 沈滞した日本に活力を与えるべく、小林忠彦会長の歌の力が全国に及ぶ。紅白歌合戦出場?。そこまでは、夢で会いましょう。