チェ ゲバラの歌

                                 




   昭和42年(1967)8月18日の日記から キューバにて
 
 大谷氏帰る。日本人でカマグエイに住む会田さんに1ドルを3ペソ に換えても らったのは失敗である。彼は商人であり、抜け目がな い。我々の行動は軽率で あった。

 朝、ICAPに行き、マソーラ氏と会う。山本さんによろしくとの事。レ コードとタバ  コにバカルディを頂いた。
 夜、Maine en Vedadaでの集会があった。アメリカネグロの運動支 援の演説があり、その後カンシオンプロテスタのミセスバーバラの 歌があった。彼女は、も うすっかりキューバの人気者である。
 中年の婦人に囲まれ、日本についていろいろ聞かれる。
 Nos solidarigamos con la lucya del pueblo de USA とかいって紙 をワイシャツに取り付けてくれた。婦人連れで来たハバナ大学の  学生で昼はJuventud rebelde という新聞社で働く、Roberdeと親し くなり、新聞についていろいろ聞く。
 新聞社を訪ねてきてくれといわれる。11時頃に終わり、ホテルに 帰るとソニアと会う。石けんを与えた。活発なお嬢さん。Bien Viaje.

 近くのレストランでビールを飲んでいると、二人の軍服を着た若者 が隣に座った。話しかけると医学部の学生で一人はレスリングを  やっているという。日本の種などをホテルで与え、明日、彼の病院 に行くことを約束。


 蒸し暑い日本・東京に帰国し、新学期が始まった9月の中頃、商学部の掲示板に学生番号0581番  佐々木三知夫、事務室までと張り紙があった。
 一体何だろうと学部事務室までいくと、職員から大きな封筒を渡された。
 宛先は 
  Mr.Michio Sasaki
  Wseda Univercity Tokyo Japan だけ。
 これでよく届いたもんだなと感心する。
 アメリカ・ニューヨークからだ。
 送り主はどこかの会社の名前で記憶はない。
 ??
 中を開けると、雑誌が入っている。
 表紙に「SWING」 とあった?。何だろうとページを開いていくと楽譜が続いている。ベトコンらしき絵があり、Ballad of Che guevara  隣のページはBallad of Ho Chi Minh であった。なぜかワシントンの写真が載っている。
  !!。
 思い出した。ミセスバーバラからだ。
 キューバのハバナの集会で歌っていた反戦歌手の彼女からだ。
 あの時、ゲバラの歌とホーチミンの歌を歌っていた。
 彼女に話しかけて、図々しくも楽譜が欲しいといったのかも知れな い。
 ミセスバーバラはアメリカに帰国してから、ニューヨークの出版社にゲバラの歌 の楽譜を日本の早稲田の学生に送るように頼んでくれたに違いない。

 感動だった。ちゃんと約束を果たしてくれた。
 キューバ行きをセットしてくれた山本権兵衛元海軍大将の孫、山本満喜子さん宅に、ゲバラの歌のレコードがあった。 すぐ覚えた。
 初めて歌ったのが、昭和44年の春。参議院議員自民党秘書団の静岡旅行で清水市で次郎長と山岡鉄舟の銅像を見た後、バスの中でマイクが回ってきた。いたずら心を起こした。ホーチミンと、ゲバラの歌を一番だけ英語とスペイン語で歌った。拍手はパチパチ。

 以来、歌う機会がなかったが、2001年8月。ワールドゲームズ秋田大会に出場したペルーとメキシコの選手の前で歌った。
 次が「ふるさと呑風便 2001年9月号に書いた「ボランティア」からの一節。

   ペルーからビリヤードの選手も参加していた。8月25日。秋田ペルー協会ではラモン選手の歓迎会を開いた。
 秋田市大町・楽楽館。彼は同じビリヤードのメキシコ選手3人を連れてきている。
 記念品は一人分しか用意していない。
 困った。協会の北島昭事務局長が急遽、記念品2個を用立てた。あと1つ。当方、せっぱ詰まった勢いで、着ていたワ ールドゲームのボランティアTシャツを脱いで、隣のメキシコ選手に渡した。
  ラテンアメリカ人は陽気で歌が大好き。ペルー国歌やメキシコの歌が会場に響いた。私は昔、キューバで覚えたガン タラメラやゲバラの歌を歌った。彼らはビエン(良かった)という。スペイン語のビエンとは秋田で「エガター」だと教えた。   そこで、メキシコのビリヤード選手が心臓病で入院したと聞いた。
 手術費用が400万円。秋田人のまごころ募金で500万円が集まった。メキシコの選手は秋田総合組合病院(坂本   哲也院長)での手術が成功し、無事退院された。
 えがった。エガター。  

  チェ・ゲバラ               フリー百科事典『ウィキペディ(Wikipedia)


 チェ・ゲバラ(Che Guevara)、本名エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(     Ernesto Rafael Guevara de la Serna, 1928年6月14日 - 1967年10月9日)は、アルゼン チン生まれのマルクス主義革命家で、キューバのゲリラ指導者。
 「チェ」はアルゼンチンのスペイン語で相手に呼びかけるときに使う言葉に由来するあ だ名である。

 プロフィール
 ブエノスアイレス大学で医学を学ぶ。在学中の1951年にオートバイで南アメリカをまわ る放浪旅行を経験し、南米各地の状況を見聞するうちにマルクス主義革命を志すよう  になった。1953年に大学を卒業した後、アルベンス・グスマン社会主義政権下のグアテ マラに行く。グスマン政権がCIAに後押しされた反抗勢力に倒されると、メキシコに移り 、この地に亡命中のフィデル・カストロと出会った。キューバのフルヘンシオ・バティスタ 独裁政権打倒を目指すカストロに共感したゲバラは、反バティスタ武装ゲリラ闘争に参 加することを決意する。
 1956年、メキシコでカストロとゲバラの組織した革命軍はメキシコから一隻のクルーザ  ー「グランマ号」でキューバへ渡る。上陸後すぐにバティスタ政権の攻撃を受け、80人の メンバーは12人しか生き残らなかったが、カストロとゲバラは生存者であった。彼らはキューバ東部のシエラ・マエストラ山地に篭って再起し、武装闘争を継続した。カストロのゲリラの指導のもとに次第に反政府勢力が結集し、1959年、ついにバティスタは亡命する。
 カストロの革命政権のもとで、ゲバラは閣僚級の要職を歴任するが、政権の中枢に落ち着くことになじめず、様々な国でゲリラ戦争の経験を活かした革命を成し遂げるべくキューバを離れる。アフリカのコンゴで革命を指導した後、南アメリカのボリビアに渡るが、1967年10月8日、この地でアメリカ特殊部隊の支援を受けた政権により捕えられ、その翌日に処刑された。
 チェ・ゲバラの生涯と思想は西側の若者や革命を目指す者たちに熱狂的にもてはやされ、その写真は1960年代の後半頃からTシャツやポスターに印刷されるシンボルとなった。