ふるさと大内町はこんなところです。町章(大と内を組み合わせ、杉のイメージ)

 秋田県由利郡大内町は秋田県の南西部、由利郡の北部にあり、北緯39度24〜27分、東経140度6〜13分に位置しています。町の東部は河辺郡雄和町および仙北郡南外村の2郡に接し、西部は本荘市と平坦地で続き南部は出羽丘陵を堺に本荘市・東由利町および平鹿郡大森町と接しています。北部は山岳をはさんで岩城町と接し、県都秋田市とは鉄道で33.5qで結ばれ、日本海沿岸部と県内陸部を結ぶ中間の位置を占めています。
 大内とは、辞書を引くと内裏、皇居の意味です。楠正成侯の4代目正家の墓が役場の中庭にあり、聖徳太子の木像を祭る太子堂が代内地区にあり、大内町は神聖なところなのです。
 町の中央には、本町の東南部、滝・芋の沢に伝説を有する芋川が西に流れ、中小河川を流域に沿って開けた
42の集落からなっています。海を見おろす折渡峠には名僧・是山禅師にちなんで千体地蔵が建立されています。


 大内町は知る人ぞ知る温泉の町である。町には5カ所の温泉があり、重要な観光資源となっている。それぞれ泉質は異なるが、その中の一つ滝温泉は、芋川の最奥地にあり、その昔(200年ほど前)、瀕死の鶴が湯浴みしているのを見つけた由利の名僧・是山和尚が開いたと伝えられています。泉質はナトリウム、硫酸塩などを含んだ塩化物泉で、交通事故の後遺症や打ち身、リュウマチ、神経痛、胃潰瘍などの効用があるとされ、地域の人のみなならず、遠来からも多くの利用客が訪れています。
 他の三カ所(感湯館、かすみ温泉、子羽広館)の温泉も、のどかな自然に包まれた素朴な風情を漂わせ、保養・湯治に好評を得ています。

滝温泉 感湯館
かすみ温泉 小羽広館

何故、楠正成公の子孫が大内町に?
 南北朝時代、後醍醐天皇側についた楠正成(皇居前広場に馬にまたがった楠公像として内裏・大内を護っている)は、1336年湊川(神戸市)で足利尊氏との戦いに敗れ、自ら命を絶った。
 その子孫は、南朝再興の活路を求め奥州に下ります。
楠正家は正成公の4代目。元中8年(1391年)6月、村上天皇第2子征夷大将軍良成親王を奉じて、副将軍として奥州に下向し、秋田には伊達郡より岩崎に来る。正家出羽守に任じられ、出羽の総大将として当時、南北朝の混乱の中にあって、よくその任にあたり、南朝のために尽力された。仙北郡大沢の打越城に入ったが、当時は小雄割拠し、南朝側にも心変わりして足利側に味方し内応するものがあって戦乱は絶えなかった。
 正家は由利にも往来して岩倉城(本荘市)に住み、この地方の武将とともに鎮撫平定に努力した。
 元中9年(1392年)10月、南北朝合一せられ、勅命をもった使者が来地し、「南北朝合一のうえは、いたづらに争うことなく民苦を救われよ」との命を受けた。また、「由利、河辺の二郡を賜う」との旨も伝えられた。
  正家は、拝領の由利、河辺両郡の統括のために地頭設置の計画をしたが果たせず、応永11年(1404年)9月28日、打越城で没した。遺体は、この地に葬ったが、子の正宣(まさのぶ)は打越城から岩倉城に移った際、岩谷森腰(現在地)に改葬したという。
  正家の一族、正宣が本荘市にほど近い黒瀬館(本荘市)に居住したのは信頼性が高く、現在、本荘市親川や本町大谷に楠姓が残っている。


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