シベリア回想 早田貫一画伯のシベリア抑留鎮魂歌
ソ連軍侵攻
友は野末の石の下
捕虜輸送列車・交換
捕虜輸送列車 所の    収容所に到着  

シベリア風景
小便所は富士山になった
森の食堂
怪我人続出
懲役25年

アムール河
鉄道建設
収容所の門
シベリア風景
収容所

シベリア風景
長い長い冬
作業へ出発
逃亡者

ゲーペーウー シベリアの天使
民主運動
収容所は整備された
帰国の報せ
只今帰りました
 (撮影 伊藤 大 氏) 画面をクリックすると拡大図がご覧になれます。 
        早田貫一・芳子ご夫妻
   作者の言葉
 戦後50年になりました。どういう約束によったのか、敗戦時約60万の将兵、一般人がシベリアに送られ、抑留され強制労働に服し、その内約5万5千人が死亡しました。それは筆舌につくしがたい、飢餓、窮乏、極寒、恐怖・・・・・・。地獄の日々でした。
 捕虜達は普通の生活では生涯かかっても到底経験できないことを経験させられました。
 わたしは一兵士、一捕虜として、捕虜であった人々、そのご家族、そしてほとんど何も知らない一般の方々に、この「シベリア抑留」をもっと知ってもらいたいと絵筆を取りました。
 これらの絵はまだ完成したものではありません。作品は未熟でその発表は内心、じくじたるものがありますが、捕虜であった人々(本県出身抑留者約9千人、現地死亡者1300人、現在生存者約4500人)も年々死亡しております。
 私が発表を急いだのもそこにあります。わたしは、初め息子のために収容所外観を描きましたが、その後、わかりやすい配列に「ソ聯参戦」「シベリア送り」「労働生活」「民主運動の恐怖」「恐怖の港ナホトカ」「帰国」まで描こうと思いました。
 しかし、力不足で描きたくてもどうしても描けないものが多数ありました。今後もこれを続けて、鑑賞にたえ、かつシベリアの実状を伝えるのに十分なものを描きつづけるつもりです
 作者プロフィール
 大正10年(1921年)  佐賀県小城町にて生まれる。早稲田大学卒。
 昭和18年11月      学徒出陣、久留米師団歩兵科に入営、重機関銃に配属、、満州に渡りソ連との国境                 に陣地構築
    20年 8月      ソ連軍侵攻、湖泉浦にて武装解除
        10月      沿海州のコンソモリスク収容所入所、その後近辺の
                 懲罰収容所を転々とす。
    23年 7月      ナホトカ出帆、舞鶴上陸、復員、
    24年         盛岡市米軍情報部(C.I.C)勤務、その後岩手県の高校に移る。
    29年 8月      秋田市立高校勤務(英語科担当)
    45年 3月      秋田県立秋田工業高校勤務(英語科担当)
    56年 3月      定年退職
 平成3年〜6年       秋田県生涯学習センター水彩画教師

    住 所 秋田市寺内字大小路142−35   電話 018−845−2468
  作者の画歴
   25年くらい前より(昭和50年頃、県立秋田工業高校勤務時代)勤務のかたわら日曜画家として
  油絵を描きはじめ、その後水彩画に 転じ、水彩連盟展、秋田美術作家協会会員として出品。
   この間、個展を5〜6回開き、その後、より「シベリア抑留」をテーマに水彩画を描き続けている。
   県展特賞受賞 2回(1984年〜1988年)
   第2回全国健康福祉祭大分大会厚生大臣賞(最高賞) 1989年 



  
拝啓 
 シベリア抑留強制労働60万年の歴史を、どうしても残したいと、20年ばかり取り組んで来ましたが、
今回フトした事から実現し、「平和祈念展示資料館」に小生の絵が16枚ばかり収められ、随時他の絵と一緒に展覧されることになりました。
 作品は、未完成のものも多数有り、内心忸怩たる思いですが、機会が有りましたら、どうぞお立ち寄り下さい。
          03・11・12     早田 貫一


 

















 
                                       

















 
「国境を越えシベリアへ」
 「朝鮮の港から船で帰国するといわれ、持てる限りの食料 、衣料を担がされ、何日も歩いて国境を越えた。そこはソ連 だった」



 
「早朝の戦友埋葬」
 「最初の冬に最も多くの死者がでた。戦友の血を吸い尽く したシラミが私の衣服にびっしり卵を生みつけていた」