空ひとつ 海ひとつ  ニコライ少年追悼歌 

    


 ルスキー島    (ふるさと呑風便  平成19年12月号
 
 ロシア.ウラジオストク市ルスキー島。9月12日午前9時。私は白菊の花束を持って、アレキサンドラと通訳の井上夫人と3人でルスキー島へフェリーで渡った。アレキサンドラは14年前の12月1日、由利本荘市深沢海岸前に建立された露国遭難漁民慰霊碑の除幕式に参列されたウラジオストク市・ルスキー島地区議会のザイキン議長の娘。彼女は中学生の時に深沢海岸で遭難したニコライ少年達の消息を調査してくれていた。
 15年前、私は遭難死したニコライ少年の遺族を捜しにルスキー島を訪ねたが果たせず、代わりに大理石を持ち帰った。その石は今、舟形をした慰霊碑の台座にはめ込まれている。
 
 その島に船長だったイワンのお墓があると聞き、墓地で探したが発見できなかった。そこで、遭難したクンガース号が出帆したとされる漁港へ行き、持参した清酒を二人でかけた。白菊の花束は島から持ち帰り、生存者のアキーモフがまつられている海軍記念館前の慰霊碑に捧げる。そこでザイキン氏と再会、「あれから歳とりました」「お互い様です」彼は議員をやめてリサイクル会社の経営者になっていた。
 午後4時。ウラジオストク市役所の貴賓室。シドロフ国際交流部長と会見し名刺交換。私のロシア語の名刺には露国遭難漁民慰霊秋田委員会事務局長とある。ニコライ達、遭難者の遺族探しを依頼する。シドロフ部長は秋田でニコライ少年の慰霊碑建立に、ロシア人はそんなことはしないと感激され、マスコミを通じて探すと約束。
 帰国後、2ヶ月たってもロシアから連絡がなく、諦めていた。ところが、きた。FAXがきた。
 英文でワンダフルニュースを送る、ニコライの甥が見つかったとある。
 後日、11月14日付けの地元紙に掲載された写真もメールで送られてきた。
 ユーリ・ガブリリューク氏。彼は家族写真も持参し、市役所を訪ねてきたとある。家族写真にはユーリの兄、赤ん坊のニコライも写っていた。
16才当時のニコライの写真もある。彼は船に乗る前に、食品加工会社に勤めていた。
 11月25日の日露友好公園で行われた日露友好の集いに、ユーリ氏を招待したいがパスポートがとれずに間に合わなかった。
 露国遭難漁民慰霊深沢委員会(小川隆一会長)と相談し、来年に招待したい。
 深沢海岸に眠るニコライも喜んでくれよう。 
 日本海の夕陽に映える慰霊碑は深沢地区の方々のまごころで建立されたもの。ふるさと深沢の誇りでもある慰霊碑は、環日本海時代の新たな感動ドラマの始まりを待つ
 


贈 物 (ふるさと呑風便 平成4年12月20日号)
 昭和7年12月1日。秋田県本荘市深沢海岸。この日、雪はなかったが大陸から冷たい風が吹きすさみ、白波が激しく海岸に打ち寄せていた。沖にはマットの折れた漁船が波間に見え隠れし、3人の漁民が助けを求めていた。浜に集まった深沢部落の人たちは、その遭難船の乗っているのがロシア人であることに驚いた。救助の船が出され、遭難船に乗り移ると、すでに一人の少年が死んでいた。50代の船長に、他の2人は20代前後の若者であった。彼等の衣服にはしらみがいっぱいたかっていた。

 60年後の12月1日。深沢海岸の共同墓地に手厚く葬られた、ロシア・ウラジオストク、ルスキー島出身の漁民ニコライ少年の慰霊碑が同じ場所に建立された。
 除幕式を迎えたこの日は、冬とは思われない晴天に恵まれた。
 慰霊碑の立つ場所は、「夕陽の見える日露友好公園」として整備されている。公園の周りには白黒の天幕が張られ、テントの中には駐日ロシア大使館参事官と3人のウラジオストク市友好代表団一行が座っている。
 午後2時。慰霊碑をおおっていた白布が柳田弘本荘市長他によって、スルスルと引き落とされた。高さ3bの白御影石のたくましい石碑が現れた。露国遭難漁民慰霊碑との碑文は、露国遭難漁民慰霊秋田委員会会長の佐藤憲一先生の書。故郷を愛する若者達の熱意にほだされたと、会長就任を快諾された佐藤先生の存在が成功への第一歩であった。
 そして、若者達が燃えた。地域の方々の力が結集されたからである。台座にはめ込まれた縦50a横1bの黒御影石に、日本語とロシア語で建立に至った趣旨が書かれ、その下に大友康二先生、菅原良吉先生による作詞作曲「空ひとつ 海ひとつ」の詩が彫られている。そして、フォークグループ「フォーグレイス」により、「空ひとつ 海ひとつ」の歌が披露された。歌い上げるは、三浦幸子先生。80年前に先生の母上が、土崎港でロシア船の歓迎会で歌ったと聞いた。ここにも良縁があった。
 除幕式には深沢地区の子ども達が見物していた。式が終わってから、ロシア人と子ども達との微笑ましい交流が行われた。バッチをもらった子どもが歓声をあげている。新山小学校の担任教師が、記念すべき日だからと、早退をすすめてくれた。時間の贈り物をしてくれた教師の思いやりが嬉しい。

 翌12月2日。本荘市長主催のウラジオストク訪問団の歓迎パーティがあった。その席でルスキー島を管理する人民代議員会のガイキン議長に提案した。本荘市深沢部落の子ども達をニコライ少年の故郷ルスキー島でキャンプをさせて欲しいと。ガイキンはハラショー、大変結構。ピオネールキャンプをウラジオストクの子ども達と一緒にしたらともいう。

私は続けて、去年ルスキー島へいったら、使われていない赤レンガの建物があったが、それを修理させて使わせてもらえるかと聞いた。それもOK。
 島の土地を売ってもいいとまでいう。ホンマかいなと思うが、本荘市の子ども達へ対岸でも島でのキャンプの贈り物は夢ではない。
 12月5日。深沢公民館での慰労会に招かれた。奥さん達からいい話を聞いた。慰霊碑建立に317万円も集まったのは、亭主にハッパをかけた彼女たちのパワーにあるようだ。
 小川隆一町内会長夫人は最初、寄付が集まらなかった時、思い悩む亭主にいった。
「お父さん、寄付金が集まらなかったら田んぼを売ろうか」
 
  ふるさとは子どもや孫への贈物 (萩原茂裕)

  
     ラジオストク・ルスキー島漁民遭難の概要

1932.11.5 イワシ漁のためウラジオストク出港(クンガース号)  
   11.20 暴風雨にみまわれ、11日間漂流。
   12.1 旧松ヶ崎村深沢沖約200b地点で漂流中の漁船を村民が発見。救 助船を出そうと試みたが、波浪のため不可。
       早朝、同海岸に漂着。
  《 船体 》  全長 約8b 幅約4b  
  《 生存者 》 イワン ザベリベッチ アスマーチコ (50歳)
         パーウエール ワシリビッチ アキモフ(20歳)
         イワン ニギーヂベツ クルカニー  (18歳)
  《 死亡者 》 ニコライ ガブリリューク (16歳)
   12.1〜12.4 深沢公民館で保護される。ニコライ少年は、同村民の手で 共同墓地に丁重に埋葬された。
   12.4 函館ロシア領事館アイセン スタート氏、深沢に到着。
      ニッポン ミナサン サヨウナラの言葉を残し、18時10分 本荘駅より敦賀を経由し、帰国の途に着く。
      ニコライ少年は現在なお、この地で眠りつづけている。
  

  
 暖 流 ー深沢地区露国遭難漁民救助記録
 私がこれからお話するのは昭和7年12月1日。今から60年前、ロシア漁民が深沢に漂着した時のお話です。
 その当時、私は18歳でした。今、私は78歳の小川興四朗です。
 午前9時頃です。村の半鐘が乱打され、私は火事かと外に出ましたが、どこを見ても煙が出ていないので、隣村ではないかと思い、下駄履きで海岸まで出てみましたが煙が見えません。「どこ火事だ?」村人が指を指して、「遭難船だど」といいました。
 この辺の漁船より大きい黒い船のマストが折れ、500bくらいの所を北風と海流で南に流れて漂っていました。すぐ家に戻って、兄と2人で深沢の小学校の下までいくと、黒い帽子とはんてん姿の消防団が紫の消防団旗を立てて待機していました。船の中に、生存者がいるのかいないのかわかりません。300b位に船が近づいた時、船の中に2,3人の人影が見えました。村の長老たちが着物を脱いで岸に来るように、真似るような格好をしました。他はあまり波が高くなかったが、中の瀬は波が高かったです。それでも乗っている船長が知らないが、船が横にならないように、船首にロープが錨のようなものを引いているようでした。50b位岸に寄った時、船の中から年が5、60歳位の髪の毛の赤い外人が顔を出しました。皆、一緒に驚きました。浜辺では村人たちが皆で、おいで、おいでと手招きして、「来い、来い」としました。
 そうしたら、彼らは恐いような、悲しそうな顔をして船の中に消えたきり、船が接岸しても、誰も降りてこなかったのです。その間、外人の漁夫は、他の国に来た不安のため、深沢の皆さんも初めて見る外人に度肝を抜かれた不安で、10分位はそのままでした。
 深沢の青年団長をしていた田村徳兵衛という人が「ようし俺が」といって船に乗って行きました。それにつられて私の兄が、そして私と3人で船に乗ったのです。乗り移った瞬間、びっくり度肝を抜かれたのは、ロープで足を縛られ、船の帆がかぶせられた死人がいたことでした。後で判ったことですが、これが後のニコライ少年だったのです。

 船の中程に時化でも水の入らない蓋の付いた彼らの船室があり、蓋を開けると3人の船員が船室の隅で頭を付け、手をつないで背中を向け、尻を上にして幾らか腰紐を引っ張っても出ようとしません。余程恐かったのだろうと思います。無理矢理引きずり船室から出したけれど、ぶるぶる震えて歩けませんでした。多分飢えと寒さと恐ろしさからだったと思います。
 私達3人は一人一人に自分の肩を彼らに貸して下船しました。砂浜に座らせ、村の5、60人に囲まれましたが、何をいっても言葉が通じません。黒い髪の人が何やらがやがや話すのをオドオドしながら見ていました。
 小川権次郎さんがカムチャッカ方面に出稼ぎに行ってロシア語を少し解っていたので、彼らと話してみるとウラジオストクの人で、イワシ漁に出て大時化にあい遭難し、11日間漂流したことが判りました。
 そのうち彼らは口を開け、指を口に入れる様子を見せました。喉の渇きを訴えていると思い、学校からバケツを持ってきて、水を汲んでやったら彼らは、奪いあってバケツの水を飲んでいました。誰かが「藁(わら)火をたいて暖めたら」といいました。
 その時、ちょうど良く隣村の人が町へ藁を売りに行くの見た、村の暴れん坊で有名だった田村嘉太郎という人が、県道に駆け登り有無を言わせず馬から藁を降ろし、彼等に藁火を焚いて暖をとらせたのです。そうしたら彼等は藁を噛むのです。
「ああ、これは腹が減っているのだ」と思いました。それに合わせたように小川三朗さんの母、クメばあさんが塩おにぎりを持ってきてやったのです。彼等は夢中になって食べました。しかし、うまそうな顔はしませんでした。始めて食べる米飯だったのでしょう。
 日本人だったら指に付いた飯粒だったら丁寧に取って食べるのに、彼等は手を振って落としていました。ご飯は苦手の様なので、小野芳吉さんの家で店を開いていたので、ミソパンを持ってきて食べさせたら、いかにもおいしそうに食べていました。藁火で暖を取り、食事をした彼等は満足したの顔をして、砂に横になり眠りにつきました。
 誰が命令するのではなく、部落皆んなで次から次ぎに救助作業に付いたのです。船を陸に上げようと小屋川の鈴木専之助さんにお願いしました。専之助さんは建網の漁業をしていたので、かぐらさんをかり船を滑らすナメ40`もあるものを30本も小屋川から運んでいたのです。船を巻き上げに掛かったあの頃は、ワイヤは高価な品でしたので、鈴木専之助さんはもしかしてキズを付けられるのではないかと思い、貸して貰えませんでした。 仕方なく、北海道方面に川崎船で漁をしていた船主が深沢でも5、6人おりました。その方から太いロープを借りてきて巻き上げに掛かったが、余りの重さにロープが切れて、船を上げることが出来ませんでした。
「この船は陸に上げたこともなく、港に係留していのものだろう」とあきらめたのです。
 私はもう一度、船内を見ようと思い、船に上がりました。日本の艪より倍くらい長く細いのが一本、船底には魚の赤い血が混じり、磯波に船が揺れるたびにイワシが2匹、ブラブラと浮いていました。ブイが一個、10b〜20bのロープ、三分の一位に切れた帆と折れたままのマスト、そんなものでした。

 切れた帆に包まれて死んでいたニコライ少年を砂浜に上げたところ、3人は悲しそうにずっーと見ていました。午後から私の隣りの家に住む、早川良吉大工が死人を入れる四角い柩を作って誰かと持ってきました。誰が伝えたのか、隣村の親川より尼僧、庵寿様が来ました。私は2、3人の村人とニコライ少年を柩に入れる役でした。彼の着ていた服とズボンを脱がせたら、16歳と思えない立派な体でした。太股には鷲だか鷹だかわかりませんが、国旗らしいものを鷲掴みにした鳥の入れ墨がありました。
 チンチンも私より倍位立派なものでした。日本ではヤクザらしいその元気な少年が、4人の内で一番先に死ぬなんて、しばらく腑に落ちなくて考えました。
 彼は何時死んだのか体が硬直して、柩に入れる時とても苦労しました。砂にローソクを立て、庵住さんがお経を上げると、彼等は砂浜に膝まづき、お経が終わるまで何回も胸に十字を切って、拝んでいました。柩に蓋をして、6人くらいで担ぎ、現在の共同墓地に十字架を建てて、埋葬したのです。

 私が、今は無い県道に掛かっていた木の橋の手すりによりかかって、日没の太陽がキラキラ海に輝いていて、ニコライ少年の墓標、十字架を照らす光景を見て、ひとり異国のこの墓地に置き去りにされた彼がかわいそうで、涙ぐんだ少年のその頃を思い出します。
 十字架も年と共に腐り、かたぐち10年、15年十字架が私の目から消えると共に、国道7号線が通り、共同墓地から各自が遺骨を掘り、新しい墓地に移動したためニコライ君がここにまた取り残されたのです。今までのような花や菓子を供えてくれる人もなく、現在まで本当のところ、忘れ去られていたのです。 生存した3人は、部落の集会場に入れ、奥の一室は寝室でした。手前は居間に当てられ、居間の炉には焚き火は危険だというので、炭火をおこして暖をとらせたのです。
 その頃、村の人たちは正月でなければ炭火にあたることができなかったのです。
 彼等はいろりの灰に足を入れ「ペチカ ハラショー」と、そんなことを連発しておりました。彼等は、いつも頭や体をかゆがっていました。青年団長の田村さんが自分の家に連れていき、風呂を沸かしてやりました。今まで着ていた服やズボンを脱がせ、田村さんが毎日着て働いている田畑の作業着、でたちを着せ、もんぺをはかせて帯を締め、手拭いを一本づつ渡しのです。何と、髪の赤い日本人が3人ができました。
 彼等は嬉々として喜び、天気が良ければ村の中、神社、学校を散歩して歩き、村人にあえば笑い顔で「ハラショ」といってました。「ハラショ」という挨拶は「良い」という意味で、天気が良ければハラショ、何か品物を頂いてもハラショでした。
 彼等が帰国してから、深沢ではハラショが流行語となり、2年間も続きました。お父さん、お嫁さん、子どもまでハラショの笑顔でした。あの頃を思い出すと胸がポット暖かくなります。
 彼等が帰国するまで深沢に3日しかいなかったと誰かが言っているが、私には10日も15日も居たような気がして、今でもそう思えてならないのです。ロシアのあの頃は、函館の領事館でしたが、そこから何も音沙汰の無かったことが今でもあるのです。これは、私がボケたためだろうと思っています。

 ある家のおばあさんが、私を呼び止めて「ロシア人というのでねが、そんな者殺してしまえ」と私にいったが、言葉の意味がしばらく判りませんでした。後で考えてみたら、あの頃昭和7年は、日露戦争後、何年もたっていなかったのです。ばあさんの夫か子供が戦争で戦死氏のかもしれないと悟ったのです。
 私の父も日露戦争に招集されて、敵状偵察の命を受けてトーチカの銃眼から顔を出した瞬間発砲され、銃弾が頬を貫通、野戦病院に護送されて、終戦帰国したが、父の頬は両方引っ込んでいました。父は終戦後、金鶏勲章を貰い、在郷軍人会でもあれば胸いっぱいにキラキラ勲章を下げて出ていきました。今も目に浮かびます。父がロシア兵に撃たれたことは子供の頃から何とも思いませんでした。むしろ父を尊敬していましたが、私が6歳の時、帰らぬ人となりました。
 父を失った私の家は貧乏のどん底に落ち、生活苦のため、私は小学校6年生卒業後、深沢小学校の給仕として、月給10円を貰う給料取りでした。この頃、5円もあればお祭りの支度ができました。母は随分助かると言って喜んでくれました。
 私もロシア兵の彼等と同じ18歳で始めて、今のサハリン、樺太に出稼ぎに行きました。
それから10年間、うち3年間サハリンに越年しましたが、毎年サハリンに出稼ぎに行きました。サハリンと日本とロシアの国境まで行くと石があり、それには日本側には菊の紋が刻まれ、大日本帝国と刻まれ、後ろはロシア語で書かれていてわかりませんでしたが、あの国境の石は今何となっているのでしょう。南樺太にはまだロシア人がおりましたし、結婚して生活している日本人とロシア人がおりましたが、その当時はおとなしい国民のように思いました。冬のサハリンは零下40度が2ヶ月も続き、夏の7,8月でも一bくらいの土を掘ると下は、氷の板です。こんなに寒い気候に住んでいる国民性のせいか心は冷たく、非妥協的です。昔から変わらぬ深沢の暖かな思いやりの心で、冷たい人とを暖めてやりたいと思いませんか。

 遭難漁民の話ばかりでなく、ロシアと関係のある私ごとも何かと語ってしまったことを悪く思います。私が今、こんな話しをするには深沢住民の優しさを後世に残して頂きたいからです。公民館の横にあるすばらしい遭難漁民の慰霊碑が何十年、いや何百年もこの事を語ってくれるで事でしょう。遭難漁民救済部落民でただ一人になりました私ですが、この感謝と誇りを持ってこの話を終わります。何も付け加えずありのまま真実を語りましたが、笑いながら聞いてください。 おわり。

  平成4年12月  テープ吹き込み 小川 興四朗
  解説編集 深沢公民館主事  小野 秀一



  新聞コラム掲載

  胸熱く ー毎日新聞憂楽帳( 平成4年11月14日夕刊)

 みぞれ降る日本海。風と波にもてあそばれる木の葉のような漁船に、息も絶え絶えのロシア人が4人ー。そんな光景がまぶたの裏に浮かんでくる碑とそれに刻む詩が出来上がった。
 1932年12月1日、秋田県本荘市の海岸に4人を乗せた漁船が漂着した。ウラジオストク近くから出漁し、しけに遭って漂流11日間。16歳のニコライ・バクレンコ少年は既に遺体となっていた。餓死だった。
 浜辺の住民たちは異国の3人を懸命に介抱した。元気になった3人は数日後、大勢の住民が手を振って見送る中、帰国の途に就いた。そしてニコライ少年。遺体はその日のうちに海岸近くの小高い丘に埋葬された。十字架も建てられたというが、今はもう残っていない。当時を知る人も少なくなった。
 心温まる実話を後世に伝えたいと、市民団体が募金活動をして、その地に「露国遭難漁民慰霊碑」を建てた。
 碑に刻まれる詩は「空ひとつ 海ひとつ」(大友康二さん作詞)。60年の時を超え、無名の住民たちの献身的な行為をたたえ、海を越え異国で眠るニコライ少年を追悼し・・・。記念の来月1日、ウラジオストク市の幹部も迎えて除幕式が行われる。 
 詩は最後に結ぶ。「胸熱く 師走風あたたかし」

  変わらぬ優しさ    ー地方点描 (秋田魁新報・平成4年12月5日)

  しけの日本海でかじをもぎ取られた一隻のロシア漁船が本荘市の深沢海岸に漂着したのは昭和7年12月。それから60年目の今月1日、漂流中に死亡したニコライ・バクレンコ少年=当時16歳=の眠る同海岸共同墓地跡に「露国遭難漁民慰霊碑」が建ち、周辺は「夕陽(ゆうひ)のみえる日露友好公園」として整備された。除幕式に臨んだ深沢地区の住民の脳裏には、60年前の介護、交流の姿がよみがえったに違いない。慰霊碑と公園はウラジオストク、本荘両市、日露友好のシンボルにとどまらず、地区にとっては住民が一つにまとまって運動を展開した努力の結晶であり、これからの地域興しの旗印ともなろう。 慰霊碑建立の話は昨年4月、由利本荘ふるさと塾の佐々木三知夫会長、小笠原良一事務局長から深沢地区で地域公民館活動を続けている小野秀一さん(41)に持ち込まれ、30代、40代の”青年”の心を揺り動かした。深沢地区は元来保守的で、外からの働きかけには慎重な人が多かった。しかし、当時救助にあたった小川興四朗さん(78)も慰霊碑建立に心が動き、そのバックアップもあって募金運動が始まった。その原動力となったのは、60年前と変わらぬ住民の優しさだろう。完成まで一年足らず。行政の素早い反応、地域への働き掛けも見逃せない。
 参加したウラジオストク市友好団の3氏は、60年前に救助された3人と同じ4日に帰国の途に就いた。前日には市長レセプッションが開催されたが、席上、本荘南中学校合唱団が同世代のニコライ少年にささげた清らかな歌声には、胸を打たれるものがあった。同校の佐藤玲子教諭がこの実話を基に、道徳の授業の資料として「砂に立つ墓標」を制作、生きた教材として活用されている。深沢地区の身近な所で起こった実話は生徒に感動を与え、いつまでも心に焼き付いていることだろう。(本荘支局)