ふるさと呑風便6月号 ’99・6


    琴 線

☆☆☆☆☆☆☆☆
  

    ありがとう
大友 康二 詩

 あなたの
 まごころの花の音符は
 五線紙の曲から
 豊かに流れ
 美しい人生賛歌となる

 ふるさと秋田のこころを
 誇り讃える
 その歌声は
 心の琴線にひびく
 

 ありがとう そして
 おめでとう

 NHK秋田放送局のスタジオ。
 午後5時5分からgogo秋田が始まる。キャスターの進藤信行さんに促され、スタジオに入る。マイクが一本上から下がり、進藤さんの右横に座る。女性キャスターの渡辺悦智子さんは大きなイヤホンをはめて一寸離れた所にいる。リクエストの選曲を担当しているらしい。6月8日。秋田まごころ大賞について話をしてくれるようにと、進藤さんから呼ばれている。
 県民を感動させた何気ないまごころ行為に感謝しようと秋田まごころ大賞を考える。3月末に秋田まごころ大賞設立委員会を設立し、5月1日に審査委員会を開き、その後色々あって、市川史郎さんに決定した。130年前の慶応4年7月4日。秋田藩士に暗殺された仙台藩通史が秋田市大町5丁目橋のたもとにさらし首になった。市川さんは、その橋のたもとで「でんえん」という小料理店をやっていた。そして30年近く毎日、線香をあげ、仙台藩士を供養されてきた。仙台藩志会では毎年7月4日、秋田市八橋の仙台藩士殉難碑の前で行われる慰霊祭の参加されている。会長の伊達篤郎さんは正宗公の4男の子孫である。

 一昨年、7月4日の仙台藩士慰霊祭の前日、仙台藩志会(伊達篤郎会長)から感謝状を受けている。
 スタジオ内につり下がったマイクに「奥羽越列藩同盟を離脱しないように秋田藩に説得にきた仙台藩の通史を暗殺・・・」と話していった。リクエストの松山千春の音楽が流れる。悦智子さんにまごころの詩を読んでもらったらと提案。
 渡辺キャスターはありがとうの詩を朗読し、ジーンときましたと語る。聞いていても琴線にひびく。

 秋田まごころ大賞授賞式。6月12日(土)夕方6時から「榮太楼旅館」で開かれた。司会進行が佐野元彦氏。琴線にふれる、まごころの授賞式であった。
 あいさつが素晴らしい。皆さん、礼儀正しく謙虚でこころ優しい方々である。審査委員長の新野直吉先生。「歴史を学ぶ老書生として、もし市川さんの事を知っていれば、最近出した『論点あきた史』に仙台通史の供養されてきたことを書きたかった。まごころ大賞に市川さんのような方を選ぶことができたのを光栄に思います」
 まごころの詩を書いてくれた大友康二先生からは、市川さんに自筆の詩が書かれている「感謝の楯」を贈呈して頂く。「私のようなこの歳になると、色々と利用されることが多い。このようなまごころ大賞のために、私の名前が利用されるということは嬉しい限りです」
 受賞者の市川史郎さんは「私にも二人の子どもがいます。この賞を誇りとしたい。ありがとうございました」と挨拶。
 世話人の竹村菊昌氏の乾杯挨拶、能登文敏先生の挨拶も琴線にひびいた。
 授賞式には23人の方々が出席された。会費は七千円頂いた。内二千円はまごころ基金となる。
 

 金銭は、次の琴線に使わせて頂こうと思います。


ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成11年2月26日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「第三セクター地域づくり論」
★ 荒谷 紘毅 氏
 (東京商工リサーチ)

 「第三セクター地域づくり論」というテーマですが、第三セクター地域くずし論に訂正したい。
 盛岡から仙台支社、東京本社に行って2年になります。東京本社に4月1日に出社したその日に、史上最大の倒産が発生した。日債銀の子会社3社が一挙に倒産しまして、総負債額二兆円。それまで東北にいて、一社あたりの負債額が平均1億6千万円を扱ってきたんで、2兆という数字、私が倒産したら情報部が活気づいているんです。これが最初のカルチャーショックでした。それ以来、兆という数字が当たり前になってきました。バブルなんですね。
 それから、学生の頃、東京におったんですが、ラッシュにあうことはなかった。今、向丘遊園の社宅に住んでるんですが、とにかく朝晩のラッシュが凄くて、朝から東京の人間は半分以上は死んでますね。でも女の人が日経新聞読んでいる。これは地方では見られない。顔はみんなブスばっかりなんですが、中には英字新聞も読んでいる。これが東京なんだなと思いましたね。毎日、新聞記者や商社、銀行の調査部の連中と会っているんですが、女のアナリストとかエコノミストとかがもの凄く多い。東京はめんこくない女が活躍できるんですね。早く秋田に帰ってきたいと思いますね。(笑い)

 そんなカルチャーショックの中で、一昨年、秋田県の第三セクター、秋田県木造住宅の破綻がありました。私はずーっと県木住の破綻まで追っていました。実は私の友達が中で役員やってましたので、裏表まで分かっていまして、分析をしているうちに第三セクターとは大きなテーマになるなあと思いあたっていました。
 第三セクターの分析は北海道大学の宮脇教授とかが地道な分析をしてきたんですが、それはなぜ効率的な運営がいかないか。それから法的な不備がある、それに対して色んな訴訟がおきている。それに対してどしたらいいのか。つまり第三セクターをどうしたらうまく運営していくのか。といった視点から第三セクターあるいは地域おこしを捉えています。
 私の場合は全然違う。秋田県木住が破綻してはっきりしたことは、一つは金融機関の不良債権の問題、
秋田県はほんとにいい材料を提供してくれます。畜産公社とか(笑い)。銀行の隠された不良債権として捉えるべきだと。第三セクターの不良債権はカウントされてなかった。いわゆる地方公社の不良債権は一切カウントされてない。
 日韓高速船の場合は、どんどんカネをつぎ込んで、最後は自治体の税金でで尻拭いをしたもんだから、前市長が8億いくらかの訴訟を受けています。
 いわゆる自治体の財源に大きな影響を与えます。この問題を初めて私が提起しました。
 一昨年の7月。日銀の記者クラブで決まった日に全国倒産の発表をするんですが、ここに付録として出したんです。それから始まったんです。秋田林産の渡邉社長に火をつけてボヤですまなくなってしまうよ言われました。 それは今年は第三セクターの精算元年になるよと。それまで90年以降、26社の第三セクターが破綻しています。去年一年で25社、いっきに表面化しています。
 自治省が地方公社といっているのに3種類ありまして、一つは民法法人、これには社団法人と財団法人があります。ほとんど非営利事業で、自治体か百%出資して、天下りがいます。もう一つは商法法人、これがいわゆる株式会社で営利を目的とする法人です。もう一つは特別法人で法律に基づいて3つあって、土地開発公社。これは県や市町村にみんなあります。住宅供給公社、もう一つは道路公社、この公社とよばれている3つが特別法人です。

 今、破綻しているのが商法法人なんです。株式会社、これは全国に三千社あります。民法法人と特別法人を合わせたいわゆる地方公社は全国に九千社あります。株式会社の狭義の意味で第三セクターといわれている商法法人は、中でも問題なのはバブル時、昭和61年、62年につくられた民活法のリゾート法の追い風を受けた全国で作られた一千社ちょっとが今、危ない。破綻した7割がその時に出来たものです。
 商法法人で一番古いのは、大正7年に作られた佐渡汽船です。これは今も現存してます。従業員五百人、自己資本が20数億あります。
 ただ今、問題なのはバブルの最中に作られた一千社。ほとんど軒並み赤字です。それにもかかわらず今まで倒産はほとんどなかった。
 企業倒産立は0.5〜1%だった。日本の法人は二百数十万ある訳です。倒産率は1%いかないんですよ。ところが第三セクターの商法法人の倒産率ははるかに少ない。
 なぜ少ないか、それが今表面化したか、何故つぶれ始めたか。
 少なかったのは簡単で、赤字がでると金融機関も自治体も要望に応じて融資をしたり、補助してきたからです。倒産させなかった。
 株式会社でありながら、市場原理がない奇妙な生き物として第三セクターがあった。これらはゾンビのようなもので何回も潰れています。例えば秋田県木材住宅、あれはつぶれるまでに実際は3回倒産している。一回はスタートして二年目、6億円の赤字を出してる。これは普通の会社だったらとっくに倒産している。たった2年で年商10億円なのに6億円の赤字、そこで経営陣を代えて銀行が資金援助して、分譲住宅屋さんに変った訳です。すでにこの時点で秋田県木造住宅は公的な第三セクターの大義名分を失った訳です。なぜならば最初出来たときは県産材の秋田杉の販路拡大のためだった。それが失敗して分譲住宅屋になった。にもかかわらず整理をしなかった。たまたまバブルの神風でバーンと儲かった。借金も消えた。ところがバブルが崩壊して、91年に資金ショートを起こした。たけどこの時も県の要請で、北都と秋田銀行以外の今まで融資のなかった県信連まで含めて75億円という資金がその時つぎ込まれた。これが二度目の倒産の先送りだった。36億円の企業が、170億円の借り入れをかかえた。これはいくら経営の達人がやったってうまくいく訳がない。以後数十億円の不透明な出費、ずさんな経営、毎月10億円の赤字を出してきた。そして97年12月、破産の申し立てを受けた。その途中で93年1月には秋住という子会社を作って30億円の借り入れを秋住を通じて迂回融資した。親会社にも返せなかった。その時、県は15億円の資金を担保のつもりで銀行に預金した。その見返りで30億だした。これで3回潰れた会社なんです。何事4回目でやっと息を引き取った。これは佐々木知事がもし在任していれば、おそらくまだ先送りされていたと思います。

 その点で寺田知事を持ち上げる訳ではないけれども、現知事でなければやれなかったと思います。
 全国の三千社に近い、第三セクターが皆同じ事をやってます。先送り、先送り。日本の大企業も役所もみんな先送り。みんな自分の任期中にはトラブルを起こしたくない。蓋をして次の人にバトンタッチさせたい。
 それが何故先送り出来なくなったか。それは去年から始まった金融ビックバンです。グローバルスタンダードの名目のもとに始まった金融ビックバン。秋田銀行も北都銀行も県からいわれるままにずるずる脇の甘いみるも無惨な融資をしてしまった。(続く)


  我青春風来記(111)
          早海三太郎
  メキシコ(5)

 ウルグアイ通りのホテル・モンテカルロ。この安ホテルに一人の日本人がいた。エレベーターで乗り合わせた日本人から笑いながら話しかけられた。「キューバに行く途中です」と話すと部屋に誘われた。伊高浩昭さん。(現共同通信編集委員)彼の部屋は最上階の5階にあった。そこには中庭があって、部屋は三太郎のよりも狭い。 彼は大学の先輩であった。大手の新聞社が新卒を取らず、どうしても新聞記者になりたくメキシコの日墨新聞の記者となった。そして共同通信の通信員でもある。
 今晩面白い所に連れていってやるという。そこへもう一人の日本人学生がやってきた。阿部という日大医学部の学生だった。「伊高さん、あそこへ行くんだったら薬も持ってきましょう」
 その夜、阿部君と伊高先輩に連れられて行かれた所は、メキシコ市の場末。キンキラキンのキャバレーだった。伊高さん、何の薬か知らないが錠剤を3粒程渡され、これを飲んでけといわれる。中に入ると薄暗い。マリアッチの音楽がうるさい程鳴っている。 入り口に近いボックスに阿部君と座る。
 先輩は教えてくれてた。「これから女が煙草の火を貸してくれとやってくる。そこでマッチをつけてやってその女の顔を見て気に入ったら座れといえ」常連の彼は馴染みの女性にどこかへ連れて行かれた。

 案の定、女がやってきた。煙草をくわえて「火を」という。マッチをつけて顔を見ると若くてまあまあ。「どうぞ」と言うと2人の女性が座ってきた。
 一人はよく見ると何と片腕のないオバさんだった。煙草の火をつけてやった女性は若いが何だかお腹が膨らんでいる。注文はというのでテキーラといった。伊高さんから「ビールなんぞ頼んだら女にバカバカ飲まれて高くつく。テキーラを一本たのんで、飲んだほうがいいぞ」ボーイがテキーラ一本持ってきた。奇怪な女性達は塩を手につけてテキーラを飲んだりしない。小さなグラスにメキシコ焼酎を自分でついで一気に飲み込む。 阿部君は片腕のないオバサンからダンスに無理矢理誘われた。スペイン語を話せない彼は「助けてくれ」というが手を引っ張られ踊り場に連れていかれた。三太郎は半ば呆れて、日本人学生の不幸を笑いながら見ていた。終わって二人がボックスに戻ってきた。しかめっ面の阿部君に片腕女が急に何かわめきだした。(続く)


│呑 風 日 誌 抄 │

 5月1日(土)昼。秋田市「榮太楼旅館」にて第2回秋田まごころ大賞審査委員会。湯沢市から阿部和夫氏も来ていただく。審査委員長に新野直吉前秋田大学学長。著書「古代日本と北の海みち」はロマンを感じさせられている。
 夜、地元新屋割山町内会の総会に出席。ここに住まわしてもらって25周年にアマベルの苗を町内に寄贈したいと提案。石井鉄二郎会長、400世帯に一個をと依頼される。後日、町内回覧で取りにきてもらうことにする。
 2日(日)午前、彌高神社例祭。直会にて斎藤寿胤氏の講話「衣の経世済民観」。県民会館にて佐々木実芸能生活40周年記念公演。「夢街道ふるさとを奏でて40年」彌高会館にて祝賀会。お琴の野口裕子先生から加藤登紀子の「鳳仙花」は韓国の反戦ソングだと聞く、世界反戦ソングの公演の話は面白い。
 6日(木)花と緑の農芸財団の土井信行氏が大型トラックにアマベル八四〇〇株を積んで来秋。雄和町へ六千鉢。伊藤憲一町長、伊藤洋文社会教育課長と「里の家」信行さんの「モネガーデン」づくりは面白い。官舎後ろの空き地にアマベル千鉢程降ろし、山王・館、ふるさと塾、たかの家にて多杯。 7日(金)夜、近所の民謡尺八の佐々木次男師匠宅へ。秋田ふるさと社中主宰として、民謡尺八に転向し、慰問興行に恥をかかないためにうまくなりたい。
 8日(土)秋田市下浜の大友康二先生宅へアマベルを届ける。秋田国体のスローガンは「健康 明朗 親切」で「まごころ国体」と称されたきっかけは、沖縄の選手団が秋田のまごころに感激し、秋田県出身戦没者の慰霊碑「千秋の塔」建立を思い立ったのだった。 9日(日)10時前から官舎前に近所の人達がやってきた。アマベルを寄贈することにして、町内会の畑山喜久雄庶務部長がアマベルの写真入りの回覧を回してくれた。カミサンとアマベルを配る。美貌に自信のある人には2鉢を。老人ホーム新成園の丸山昌子園長や信太アイさん達に配るが、大げさでも嬉しいといって喜んでくれるともっと持ってくればよかったかなと思う。
 11日(火)横町・ドラゴンにて。渡部慶一毎日新聞秋田支局長と故小西吉則氏を忍ぶ会の件。県庁の偉いのと若い県会議員達が来たので通町の唐なすに移り、魁の那須優記者も来て色々相談。
 14日(金)平安閣にてナイトセッション。坂本賢二バイオファーム代表と高橋真木夫四季彩社長の話。坂本賢ちゃんはマレーシアから植物博士招聘。高橋社長、素敵な秋田にしたいといい話だった。
 元毎日新聞秋田支局長の古林さんと秋田駅前パックスハウス。川反のあざみ(沢木香代子ママ)へ。北海道の三木賢治局長へ電話。
 15日(土)朝、天王町の海岸保安林へ。敬愛するロマン経営家むつみ造園の佐々木吉和社長が提唱して5年目の「フィロス秋田」ゴミ袋と火ばさみを持って砂防林のゴミの集積撤去作業。カモシカに出くわす。いい汗、快感。
 16日(日)午後、セレモニー平安にて加藤俊三氏(加藤建設社長)の葬儀。超満員で盛大。加藤さんの死は古い盟友で衝撃だった。立派な人生を送られた。合掌。
 17日(月)国際交流協会でのスペイン語講座へ。メキシコの先生だが、3日坊主に終わるまい。
 18日(火)秋田市八田の老人保健施設山盛苑へ。(施設づくりの達人・栗河和夫先輩へアマベルと届ける。
 22日(土)午前中、秋田市寺内の嘉藤先生、早田先生宅へアマベルを。午後、平安閣。若者地域おこしグループ「トトカルトマッチョマンズ」の奈良真・美香子さんの結婚式。あゆかわのぼるさんが仲人、元気のある寿であった。
 23日(日)八橋陸上競技場にて慶応対全秋田のラグビー試合。芝生が綺麗。秋田逆転負け。
 秋田・長野県人会へ。第一会館へ。若林正武元長野県出身参議院議員秘書ということで賛助会員にしてもらう。良き出会いであった。
 24日(月)花いっぱい運動の仙北郡太田町へ。「秋田県民歌のふるさと」との看板。作詞の倉田政嗣が太田町出身だった。
 27日(木)環日本海交流推進協議会の設立総会。平安閣。
 午後4時。秋田ビューホテルに田中昭一さんが角館から田川誠一先生を送ってきてくれた。
 ふるさと塾にて特別講演「政治腐敗の病根を考える」80歳の先生は3階までの階段をとんとんと上がられる。感銘の講演後の人間道場にまで参加していただく。
 28日(金)田川先生のご来秋の目的の一つが元民政党総裁町田忠治翁の生家跡を訪ねること。二人で探し歩く。あった。保戸野八丁の小公園に小さな石碑。元農林大臣・商工大臣町田忠治生誕の地とある。彌高神社を参拝し、千秋公園を歩きながら、旗を立てるには、地域に貢献することが大事だといわれる。肝に銘じる。
 30日(日)秋田メトロポリタンホテル。中華料理業発展向上の厚生大臣表彰を受けた本多俊二氏の受賞祝賀会へ。人目にふれない一輪の花、先輩や家族の協力あっての受賞と立派な挨拶だった。