ふるさと呑風便12月号


    運

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四十三(ヨソミ)会名簿が送られてきた。母校の昭和四三年卒運動部の名簿である。野球部が一番先にある。三〇名もいる。その中に三輪田勝利の名前もあった。神宮球場で投げる彼の姿を思い起こした。長身から投げるまっすぐに威力があった。
三〇年前当時の野球部メンバーは一番から(遊)荒川、(左)木下、(右)谷沢、(中)林田、(一)小田、(二)秋吉、(三)箕輪、(捕)阿野、(投)三輪田。
四十三会の名簿には三輪田投手の勤務先がオリックス野球クラブ兜メ成部とった。

それから数日して、新聞にオリックススカウト自殺の記事。三輪田はイチローを発掘したスカウトだった。誠心誠意が彼のモットー。スポーツ紙によれば他球団のスカウトは「最後は金だよ金」とうそぶく。三輪田スカウトの誠実な性格からして、たかがといっては悪いが、高校生の卵をスカウトできそうにないと悩んで死を選ぶのだろうか。運動部の同期として何とも残念で悼ましい。
希望球団にくじ運悪く当たらなかった高校生に、不運が幸運を呼ぶこともある、思うようにならないのが人生、といってもわかないだろうが。
三輪田勝利氏も出ただろうが、母校の卒業式。校友代表が世界のソニーを創った井深大(まさる)さんだった。井深大先輩は社会に旅立つ後輩達にいわれた。
「世の中は甘くない、厳しいものです。でも最後は人間です。人間性ですよ」この言葉は今でも私の頭の中にしっかり残っている。
今年亡くなられた井深さん。大学を卒業して、東芝を受験したが落ちてしまった。この不運がなかったら今日のソニーはなかったろう。最後は運ではない、人間なのだろうか。

それにしても。この10月に亡くなられた小西吉則さんは不運としかいいようがない。無念。
毎日新聞横手通信部長。享年六〇歳、食道ガンだった。大手術後、集中治療室で眠ったまま、一ヶ月足らずに逝かれてしまった。何故。
別の病院を選択してたらと悔やまれてならない。
ご本人は声帯を除去される可能性もあると告知され、「無声記者」になると毎日新聞紙面に宣言されていた。「小西さんらしい、日本で初めての無声記者もいいじゃないか」と感激しながら読んだ。
先般、横手市のご自宅で遺影を見て絶句。それはカメラを構えて決まっている小西さんの姿だった。奥様の話だと手術前に写真屋さんへいって撮って貰ったものだといわれる。小西さんは覚悟をしていたのだろうか。彼が息子のように親しくしていた、秋田テレビの大友直氏へあてた手紙がある。
「・・・最悪の場合、声帯も含めてそっくり除去する可能性が強く、命永らえ稼業を続行できれば「声のない記者」になりそうです。車イスとか松葉杖はいますが、こんなのは初めてでしょうね。使い物んいならないし、まあ許してくれないでしょうが・・。もちろん『死』を含めて覚悟はできているつもりです。至って冷静です。
六〇歳。神様から与えられた人生ですもの。じたばたしたって何もならないでしょう。『勇気のある人に苦難と試練を与える』というじゃありませんか。その人材に選抜されたのかも知れません。
あの世に行ってもマスコミの世界に席を置き、横手に似たところにオヤジとして君臨。酒場はもちろん、競馬、競輪、雀荘、球技(野球、ラグビー)の穴場を探しておくよ。慌てないでゆっくり来てほしいな。来てもけ落とすよ。じゃあ、元気で。最近のはるか、せいかちゃんの写真送ってほしいな」

 小西さん。何時か天国の酒場で会えます。(合掌)


秋田ふるさと塾地域づくり実践セミナー

★平成10年5月29日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「人づくり・地域づくり」(2)
★ 寺田穣(ゆたか)氏
 (経営教育コンサルタント)

 貧乏に私も堪えましょう、あなたも堪えなければいけないし、消費も押さえなければいけません。ひっとしたら円が160円ぐらいになるかもしれません。それにも堪えなければいけなくなるかも知れません。 特に食料はほとんど輸入物でしょう。それをどうしてますか。半分ぐらい捨てちゃっているんです。捨てるために輸入しているようなものです。日本の食料自給率は今、30%を切っているんです。先進国の仲間入りしている国で日本だけです。それでもって幻の豊かで、金さえあれば何でも食えると喜んでいる。
 そういう生活を我々は当たり前だと思っています。日本には肥満体が非常に増えています。一割皆さん体重を減らしてご覧なさい。かなりの食料を落としてもいいはずです。健康になります。そうなれば食料もこんなに輸入しなくてもよくなります。
 食料の自給についてですが、1960年にイギリスはかなり低かった。70%か80%でしたが今は100%を超えているんです。八〇年代にかけて自給率が減ったところはひとつもありません。イタリアでさえ上がっているんです。日本は一九六〇年に80%あった自給率が30%割り込んでいるんです。どういうことですか。
 私はもういっぺん農業化社会に戻らなければいけないと思っています。工業化社会を目指して、物作れとなった結果がこれなんです。輸出して儲けてきた、この輸出に対して、アメリカはじめいろんなところから障壁が出てきた、反撃が怒ってきましたね。
 ヨーロッパの小さな国々のように自給率を高めていったら国際的なトラブルもなくなってくるような気がします。カナダのように200%以上の自給率を高めようとはいいません。 

 私のふるさとは高知ですが、中村市へ行きましたら、休耕田がいっぱいありました。ススキが生えていてこれではもう元の田んぼには戻らないと思いましたね。
 田んぼを潰して工業団地にして企業誘致しようとしたら、バブルがはじけてこなくなった。
 私はもういっぺん農業に戻れといいたいんです。もっと田舎に喜びを見いだすような生活を持っていくような教育を、学校の先生方にして欲しい。子供達に農村で育つことの喜びも教えてほしい。
 日本はあんまりにも都会に集まりすぎています。地域の振興は人口の分散から始まるんじゃないかと思います。
 早稲田の商学部教授で、大塚勝夫先生(佐々木三知夫同期、屋台村塾へ行く約束を果たせず、この秋ご逝去)がおりまして、「農的生活」をいう本を書いています。これを読んで感激したんです。山形の郷里の高畠町に屋台村塾を作って農村で地元青年と学生達との交流を進めているんです。
 ものは考えようです。いろいろ暗いことが続きますが、落ちるところまでどん底まで落ちたら、ま、これから先は明るいことばっかりあるんじゃないかと。これから明るい顔してがんばっていきましょう。そのためには農業を大事にして、農的生活を大事にして、自分でもお米を作り、麦を作るようにしながら、自然と共生していくような国にもう一度戻したいなという気がするんです。
 人作りというのは今のあるがままで十分。そういう人達が大いに自分の考えを話し合った時に地域が自然に興ってくるものと思います。どうか、ふるさと塾で大いに語り合って、けしかけて、火をつけていって頂きたいと思います。


我青春風来記(105)
       早海三太郎
  新宿区霞岳町(45)

「グッドラック」と手を振って。アメリカ人のバイヤーはタクシーの助手席に乗って走り去った。
 ヤラレタなあ、と三太郎。
 サンディゴから踏切の遮断機のような国境を越えて、メキシコ・ティファナのバスターミナル。一緒に乗り込んだアメリカ人と一緒に降りた。トランクから荷物を下ろして、タクシー運転手に代金とチップをドルで払った。助手席に乗ったアメリカ人から半分貰おうとしたら、バイヤー風の米人は金を払わず助手席に乗りこんで行ってしまった。
 バスターミナルといったら格好がよすぎる。周りに建物も少ない。ティファナのそれは田舎の駅の待合室を少し大きくしたような所。メキシコでもカルチャーショック。国境を越えてわずか五分。目にしたものは、アメリカと較べて余りにも貧しい、人も車も建物も。何故こんなに違うのか。
 三太郎は帰国後、この違いの認識体験を下に、イギリスとスペインの植民地政策の違いにあると考え、論文を書いた。スペインは征服した植民地を女王の土地としてただ略奪しただけ。イギリスは巧妙に先住民に同化せずして、人材を育てていった。
 バスの待合室にはメキシコ人だけ。九州の田舎の小父さん風が座っている。親しみを感じる。切符売場でメキシコシティまでの切符を頼む。窓越しの女性を見て驚いた。鼻の下に少しヒゲがあるのだ。それでだろう。スペイン語では鼻の下のヒゲとアゴヒゲは言葉が違う。
 しばらく待って、グレイハウンドのバスが来た。五〇人乗り。メキシコシティまで三日もかかるという。後部座席の方に座った。乗り込んでくるのはほとんどメキシコ人。人なつこい若者が三太郎をみてニコッと笑って近くに座った。彼とはメキシコシティでアメリカ美人をからかうような仲になった。田舎の近所のトッチャン風も後ろの席に座った。おっと、黒髪で、目のぱっちりした女子大生風がこっちに歩いてくる。通り過ぎた。隣の席ではなく、後ろの席に座った。残念。バスが走り出した。
 メキシコのイメージは砂漠のサボテン、色は茶色だった。砂漠の光景はまだ。ティファナの街角から夕陽が刺してきた。美しい。振り向く。後部席の美女の顔が夕焼けに染まっていた。(続く)


講演「雪を活かした地域づくり」
日時 平成一〇年十一月六日
会場 秋田パークホテル
主催 秋田県雪対策協議会
講師 佐々木三知夫

 欲出せ、知恵だせ、元気出せ
 雪を活かした地域づくりとは、結論からいって人間性ということになります。雪はほんとうは大変です。秋田弁でいえば「うたて」といい、鉛色の空の下、精神的にもうっとうしいですが、童謡に、角だせ、槍だせ、目玉だせというのがあります。これをもじって欲出せ、知恵出せ、元気出して、良い所を伸ばし、悪い所を直していけば何とかなるものです。
 そもそものはじまり
 地域づくりは、雪を逆手にとって何かしてみたいということから、昭和五三年一月十六日に第一回雪上野球大会を実施しました。
 回を重ねるごとにルールも整備し、十周年にはチビッ子野球大会も開催し、野球を始める前に雪の科学教室を称し、秋田大学の梶川教授から雪についての話をしてもらいました。
 参加チームは二チームで始めたものが、今年は十二チームの参加となりました。秋田県在住の外国人のインターナショナルチームもその一つです。
 現在、会場は秋田市から東由利町になっておりますが、以前の会場となった大森町からも参加し、輪がしだいに大きくなっています。 このような大会に付き物といえば、大会が終わってからの交流会。それぞれの特産物を持ち寄って楽しい一時を過ごすのですが、雪上野球もご多分にもれません。大森町の特産大森ワインと東由利町の特産のフランスガモが交流会でドキングしまして、これがいける。食べるほど、飲むほどに誰いうことなしにセットにしてはとなりました。両町でこれを商品化して、郵パックにて売り出し、結構売れているそうです。

 地域づくりは地域の交流から
 地域づくり、地域おこしは地域の交流によって一つの文化、新しい産業を生むことの例をお話しました。肝心なことは、そこに住んでいる方々の気持ちの持ち方、やる気によって大きく左右されるのも事実です。
 日本ふるさと塾の萩原茂裕先生によれば、長野県野沢温泉村では、日本のスキー発祥の地ということで日本で初のスキー博物館をつくった。そこに住む人達は雪を大切にし、その分訪れる観光客をもてなしの心で親切にしています。地域づくりはよく、よそ者と若者とばか者がうまく調和して頑張らなければといわれます。
 私がかって生活センターにいた時、県外出身の奥様方に集まって頂き、井戸端ゼミナールを始めたことがあります。よそ者である彼女達は、冬になり雪や、鉛色の空に初めはうんざりしながらも、何とか冬の秋田の良さを自分で見つけて楽しもうとしておりました。嫌だ嫌だというまえに、じゃあどうしたらいいのかと、井戸端ゼミナールで話し合って、体験談、失敗談などをまとめて、ようこそ秋田読本「へばなんとす」という本を出版しています。彼女たちは、長年秋田に住んでいく訳ですから、現在も井戸端ゼミナールの活動を続けて、県外から秋田に来た主婦のためにインターネットのホームページまでつくってます。

発想は四分六の精神で
 物事を進めるには真面目だけでは長続きしません。私は四分六の発想で行けといってます。地域のためとか真面目は六分、四分の遊びの精神がなければ。
 雪上野球も四分六の発想で続けてきました。そこに感動の雪のドラマが生まれ、思わぬ副産物も生まれる訳です。 秋田県人は欲がありません。もっと欲を出していろんな地域の人との交流を通じて、よい情報をもらっていけばいいと思います。
欲出せ、知恵出せ、元気をだしましょう。(ゆき情報・1998・12 ワイパから掲載)


呑 風 日 誌 抄

 十一月3日(火)文化の日。快晴。早朝、大館市長木川上流へ。長木川源へブナを植える集い。大館の田中敏雄氏と。70人程参加者。地元小学校の生徒も。大館自然の会の明石良蔵会長が書かれたブナの植え方の絵図は素晴らしい。植える場所が営林暑事務所跡のため水はけが悪く、土を盛った植え方になる。二〇〇本程植えていい汗。昼、花岡の照井食堂へ。空手の兄弟子、照井敏之さんの旨いラーメン。
 五日(木)秋田ビューホテル。秋田地域留学生交流会議。秋田大学の徳田弘学長はさばけたいい人。留学生との懇親会で、秋田大学学生だった幸村成美都君が世話になったお礼。彌高神社の北嶋昭宮司と秋田銘菓「金萬」買って仲良し夫婦のさばけた店「道心」へ。
 六日(金)みずほ苑。秋田県雪対策協議会にて講演。「雪を活かした地域づくり」雪上野球の話。欲出せ、知恵だせ、元気だせ、と。 七日(土)若美町農業者トレーニングセンター。「考えてみよう身近な国際交流」国際交流団体情報交換会へ。「百聞は実践に如かず」で、遠田順夫氏の愉快な講演あり。帰り安田一政さん宅に寄り、新鮮野菜をどっさり頂いてしまう。
 八日(日)尊敬する田川誠一先生(元自治大臣)から電話でびっくり。以前横須賀で医師をやっていて湯沢市に帰った方の消息を聞かれる。先生からは手紙についても教わることが多い。返事は遅くとも三日以内に書くこと。
 日本海に沈む夕陽を見ようと雄物川河口の百三段海岸へ女房と。ジープだから砂浜を走ろうと突っ込んだが砂に埋まってしまう。三台もジープが集まってきて救出された。夕陽どころではなかった。秋田の人は親切。後でわかったことだが、前輪をロックしておらず、四駆にならなかった。
 十一日(水)横手市。小西吉則氏宅へ弔問。生涯一地方記者、食道ガン手術で全国初の「無声記者」となるはずだった。小西さんにはほんとにお世話になった。いい人間を沢山紹介してくれた。「カメラを片手の遺影」に思わず絶句。呑風便を奥さんに渡すと、「ほらあなたが楽しみにしてた呑風便よ」と仏壇に捧げられる。
 十三日(金)秋田市横町中華居酒屋「銅羅権」。毎日新聞の渡部慶一支局長、秋田魁新報地方連絡部の那須優部長代理と小西吉則さんを偲ぶ会の相談。
 十五日(日)タッチラグビー大会。雄和町スカイドーム。「みっちゃんず」チームで、福祉施設の職員達、元日ハムエースの工藤幹夫氏もメンバー。三試合やり、二敗一分けで、納会をやることに。
 みずほ苑。秋田ボランティア協会十五周年特別交流会へ。車椅子の画家、高橋修さんを、手話の歌「テーマ」を創った阿部十全氏が特製の車で案内してくれる。松山市からも参加、菅原雄一郎会長の人的資源大。
 十八日(水)秋田キャッスルホテル。工藤清一郎さん(全国町村会副会長)の出版記念会。受付。五百人程集まり、親戚の工藤大先輩の人脈は凄い。
 新屋の西部公民館人間学講座で講演「葉隠墓苑と新屋衆」
 二一日(土)秋田市八橋・靉にて田沢湖町の田中昭一氏、千秋美術館長の渡部誠一郎氏と久しぶりに三人。飲むときはやはり三人がいい。雑談にならない。秋田まごころ大賞を設立する話。受賞資格は「とてつもなく秋田県人に活き活きと感動させた人」へ贈ることに。川反・祭囃子、モアへ。
 二二日(日)秋田空港から女房と福岡空港へ。バスで熊本まで約二時間。義弟の二ノ村信正家に娘江津子もいて、有明の幸、熊本名産馬刺の特上ありで感激。
 二三日(月)熊本からレンタカーで、母上、女房、娘を乗せて小倉へ。ミカン畑の景色。リーガロイヤルホテルにて姪の山本知子、沖田聡君の結婚式。エイズの研究で有名なヒゲの山本直毅博士は、ドクトルマンボーまでした好漢。 二四日(火)秋田県自治研修所。地域国際化研究所の寺田新一郎先生の体験研修を夜更けまで受ける。
 二六日(木)鳥海町・紫水館。鳥海町職員組合で講演「縁」終わってから若い職員達と二次会でとことん酒。鳥海荘泊。
 二七日(金)朝、本荘市のバス停で待っていた佐々木市雄さんを乗せて秋田市へ。夕方、彌高会館にて秋田ふるさと塾人間道場。カラオケ大会の審査委員長が佐々木市雄さん。今年の優勝はふるさと塾事務局次長の佐々木啓助氏「雨に咲く花」、景品が藤井美弥子さん贈呈の素晴らしいバルーンアート。準優勝が江戸っ子ママの渡部紀代子さん。秋田テレビ贈呈の日用品一箱。二次会は人情酒場駅前「久保田」で啓助氏の祝賀会、バルーンを持って早く家に帰って娘の喜ぶ顔をみたい彼を多良に連れてって又、短い祝賀会。
 二八日(土)秋田市山王・彩花亭。毎日新聞横手支局長だった小西吉則さんの後任として決まった毎日新聞本社の佐藤正伸さんの支局歓迎会。秋田は十年ぶりの佐藤さん、これも良き因縁。天国の小西さんもこれで安心だろう。二次会は山路にてカラオケ酒。
※では、皆さん、よいお年をお迎え下さい。!!